「shower」「TINY DOROPS」「Okay」に見る死生観

稲葉さんのなかで、死と、水の小さな粒は、意識的にであれ、無意識にであれ、関連づけられたものなのだろうか。

「TINY DOROPS」は2009年のアルバム「MAGIC」に収録されている。
この曲で、死者は「美しい丸い粒」、「しずく」と表現されている。

97年に「Shower」で、死について(おそらくこのとき初めて)稲葉さんが歌ったときは、「優しく僕を叱りながら 小さな粒がふりそそぐ」とあって、去って行く者(あるいは死者)はあたかも雨の「小さな粒」となって「僕」を叱っているかのようだった。

二つの作品で描かれる語り手の死の受け止め方はそれぞれ異なっている。

「shower」で死について歌ったとき、稲葉さんは歌詞のなかで〝後悔〟という気持ちを押し出していた。
「後悔はぬるい雨とともに 土にかえり また花を咲かすだろう」
後悔とは、誰かのためを思っているようで、実はその思いは何もできなかった自分に向いている。
自分がああできたら、自分がこうしていたら。
そして、この後悔がせめてどうか意味のある、「花を咲かす」ものであってほしいと語り手は願う。

「shower」において、死は受け入れがたいものとして表現されている。
「どうして人は大事なこと忘れるんだろう」「どうして人はいつかはかなく消えてゆくんだろう」と自問しても、語り手が死の意味を知ることはない。
「どうして人はいつかはかなく消えてゆくんだろう教えておくれ
命は夕陽に抱かれ 燃えながら 旅立ち また 誰かを照らすよ」
「どうして」「どうして」と何度自問しても、その答えは明確には出せないまま、命がめぐって「まただれかを照らす」という願いだけが、唯一の救いとなっている。

一方、10年近くの時を経て稲葉さんが歌った「TINY DOROPS」では、死者への〝感謝〟が表現されている。
「心からありがとう」と思うとき、思いは自分ではなく、相手に向いている。
死者への感謝や、いただいた感動を胸に、人生を改めて生きていこうとする歌である。
「つらいけれど」「こわいけれど」と、確かに語り手は葛藤している。
しかし、死はもはや受け入れられない運命ではなく、誰もがいつかそこにいく安息として描かれる。

「Okay」について。
この曲は、2010年6月にリリースされた稲葉さんのソロ曲だ。
「終わりがあるから 誰もが切なく輝ける」という考え方は、すでに「BURN」(08年)でも示されていた。
死があるからそ、今、生は美しく輝く。
しかし、「Okay」でも、死にまつわる葛藤から解放されるわけではない。

「真っ暗で静かな無限の空」、「埋められない穴をかかえさまよう」と言う「okay」の語り手にとって、いつか訪れる死は、測りがたく、恐く、悲しいものだ。
「それを失う未来を想ってはふるえてしまう」のであり、「哀しくもヤワなこの心臓」をたずさえて生きていかなければならないことに、語り手はおののき、葛藤する。

その時、彼はどうしたか。彼は口に出したのだ、「Okay」と。
「Okay」と何度も何度も自ら口にすることによって、彼はこの世に死があること、自分が死ぬこと、愛する人が死ぬことを、受け入れて生きていこうとする。

「shower」で内へと向かっていたベクトルは、「TINY DOROPS」「Okay」では方向を変えている。
死への恐怖、哀しみ、葛藤は確かにある。しかし〝自分本位〟からは少し離れている。
死者に感謝し、また死を受け入れて生きていこうとする謙虚でひたむきな人の姿を私はそこにみる。

(2010年1月16日に日記に書いたものを加筆修正。)

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