『The 7th Blues』―喪失からの再生

『The 7th Blues』は私が最も愛するアルバムだ。
当時のメロディラインや、ブラスサウンドを多用したアレンジ、
そして稲葉さんのお腹の底から叫びをあげるようなヴォーカルなど、なんといっても楽曲の魅力があるけれど、
ここでは『The 7th Blues』の歌詞について語ってみたい。
7thと同時期の『MOTEL』と『Mannequin Village』も視野に入れる。

『The 7th Blues』の曲は、よく暗いと言われる。
7thが好きな人のなかには、その暗さや、鬱っぽさが好きだという人も少なくないようだ。
『LOVE IS DEAD』、『Don't leave me』、『春』、『未成年』、『闇の雨』、『MOTEL』。
時に激しいシャウトを交えて悲痛な叫びが歌われる。

一方で、7thには『JAP THE RIPPER』、『ヒミツなふたり』、『おでかけしましょ』、
『もうかりまっか』など、とてもハイテンションで陽気な曲もある。

私がこの2枚組のアルバムの中に見出している魅力は、深い哀しみと、
狂ったような陽気さが同居していることだが、
これがどういうことなのか、考えてみたいと思う。

1、喪失の哀しみ
『LOVE IS DEAD』、『Don't leave me』、『春』、『未成年』、『闇の雨』。
これらの曲には、どうにも埋めることのできない他者との距離感に愕然とし、
愛する人が去っていくのをただ見送るしかすべがない主人公の姿がある。
子供のように必死にすがりついて、地団駄踏んで手に入らないものを欲しがっても、
愛する人はもう戻っては来ない。塀の上から、“あなたはまだ未成年よ”と笑われるだけだ。

社会規範や道徳からの逸脱を恐れる『春』の主人公は、罪を犯すことをためらい、愛を貫徹しなかった。
愛の「つぼみ」は会うたびに「焦かれ」、花開くことはない。

では、罪を犯すことを決意した場合はどうだったか。
『闇の雨』で愛する人は「闇のむこうに」いたのか。
主人公はきっと「きっといてくれるはず・・・待ってるはず・・」と、
「あなた」との「約束」にすがっているが、稲葉さんのこの頃の歌詞における約束の意味を考えると、
残酷な結末が待っているとしか思えない。
(「約束なんかはしちゃいないよ」と「RUN」で歌われたように、稲葉さんの歌詞では
言葉による約束よりも、約束などしなくても結ばれていく絆のほうが重視される。)

二人でともに生きることを選択した『MOTEL』においてすら、「重ねてもはみだす心」という言葉の通り、
罪と愛の狭間で苦しむ2には、ぴったりと心を重ねることはできない。
「一人じゃいられないから」2人で生きる。だけれど、そこには同時に、癒しがたい痛みがあった。

7thには、一貫して哀しみが胚胎している。
それは、どのルートを通っても、どの選択肢でも、どうあがいても、
愛する人は自分のもとを確実に離れていくということだ。
もちろん、それぞれの曲の歌詞の主人公は同一人物ではないだろうし、
続きもののストーリーとして繋がっているわけでもない。
だからこそ、それはまるで悪夢のようだとも言える。
“彼”は、たとえ何度生まれ変わっても、いつも同じ運命を辿るかのようだ。
7thには、まるでトラウマのように、何度もその傷をえぐるかのように、“喪失の哀しみ”が歌われている。

愛する人を失ったことの喪失感は、彼を「まともに生きられない」(『LOVE IS DEAD』)状態においやる。
「死んだ恋の呪文」に縛られて、自分は「おいてきぼりの亡霊」になってしまったという『LOVE IS DEAD』。
「欲望のシステムに飲み込まれ」、人生も「彼女」も台無しにしてきた自分の姿を、
「華に溺れもうどこにも戻れない」と自嘲する『Mannequin Village』。
『Don't leave me』では、遊びの恋にウワツイテいた自分のもとを「君」が去った時、
初めて己の愚かさに気付き、神に対する懺悔の様相を呈しながら、
「僕を許してくれる」存在は「君」しかいなかったのだと叫ぶ。

この深い哀しみの先に、いったい何があるのか。
他者との距離感に愕然とし、深い哀しみにむせびなき、「どこへ戻れるの ここから飛び降りたら」と、
彼の脳裏に“死”が浮かぶ(『赤い河』)。
思い詰めれば、その先には死がある。
『The 7th Blues』の哀しみは、“生か死か”の瀬戸際に及ぶ深さだったのだろう。

7thには、包容力のある強き母のような女性(『Queen of Madrid』)が登場し、
「旅の疲れならここで癒しておいでよ」と両手を広げて待っていたり、
人間を超越した壮大な『赤い河』の流れが、主人公の心を次第になだめていく。
このように、“自己を超越した大きな存在による癒し”が7thに描かれていること自体が、
癒されるべき“彼“の痛みの深さを物語っているとも言えるだろう。


2、死か狂気(生)か
そして“彼”は、意識的にか無意識的にか、死ではない方向に行こうとする。
もちろん、それは生の方向だ。
しかし彼はもはや「まともに生きられない」。では、彼は生きるために、どうしたのか。
『JAP THE RIPPER』は、ハダカになって好きなようにやっちまえ、放送禁止用語もしゃべっちまえ!
という勢いで、社会規範や道徳さえも無視し、ひたすら狂ったように「僕の自由」をうたいあげる。
この、えげつないまでの率直さは、単なる陽気さではなく、もう狂気と呼ばれるものにずっと近いものだ。
そしてまた、『ヒミツなふたり』、『おでかけしましょ』、『もうかりまっか』においても、
ひたすら歓楽と自由を謳う“彼”の姿は、理性というものを置き去りにしていくように感じられる。
『SLAVE TO THE NIGHT』では、“どうせあなたは僕の本当の気持ちなんて分かってくれないんだから、
心で結ばれないなら、体だけでも結ばれるために、僕はあなたの夜の奴隷になるよ”とばかりに、
性の歓楽へと奔走する。

深い哀しみに直面し、生か死かの瀬戸際に追いやられた時、
“彼”は狂気しながら生きることを選んだのだ。
7thに表れている陽気さ・えげつなさ・子供のような素直さ。
こういった要素は、手離しで喜べるような幸福や、根っからの明るさとは別物なのだろう。
ただの強がりとも、また違う。
喪失の悲しみによって生か死かギリギリのところに追い詰められた“彼”が、狂気へ向かっていくその様相が、
陽気さ・えげつなさ・子供性として表れているということなのだろう。
そうしてみると、社会規範や既成概念にとらわれず、自由に本能のまま生きる『Sweet Li'l Devil』の
「オマエ」は、 自由や狂うことに対する“彼“の憧れそのものだったのではないか。

確かに、『JAP THE RIPPER』一曲をとりあげてみたら、バカバカしく騒いでるだけの歌詞として聞こえるかもしれない。
だが、なぜそうしたバカバカしさを表現しなければならなかったのか。
深い哀しみの前で、死のニオイを敏感に感じてしまった“彼”が、
生きるために狂うことを選んだのだとしたら。

哀しみの深さと比例して、狂気じみた陽気さやバカバカしさが、
7thにどうしても必要だったのではないかと思う時、
私は7thのどの曲を聞いていても、胸が傷むのだ。

(抑鬱状態だった主人公がある一定ラインにくると突然キレる、というのは7thに限らず、
B'zの稲葉さんの歌詞の特徴の一つだ。
この特徴が顕著に表れてくるのは、「ゼロがいいゼロになろう」と言い出した『ZERO』の頃からだ。
しかし7thの場合は、一つの曲の中にその特徴が単体として表れているのではなく、
哀しみは哀しみの曲として、陽気さは陽気さの曲としてそれぞれ表現され、
アルバム全体の曲同士の関連においてこの特徴が見出せる。これは『ELEVEN』にも言えることだ。)


3、喪失からの再生
“彼”は生きるために狂気へと奔走した。
彼が、もしも本当に子供なら、このままバカ騒ぎを続ければ良かったのだろう。
しかし、のちに『Thinking of you』(2000年)で「狂ったふりをしても正気をたもて」とされるように、
稲葉歌詞の主人公は、現実から完全に逃避してしまうことはあまりない。


「今、僕は何処にいる?いつも足元を見失うな 狂ったふりをしても正気をたもて」(『Thinking of you』)
“彼”の中には、生活を、人生を見つめる目が確かに存在している。
人生を見つめる眼が、狂っている自分自身に「正気をたもて」と言い聞かせる。
狂うことは人生を歩むことではない。人生を歩むために足元を見つめろと。
7thにおける“彼”がどんなに狂ってみせても、それは“狂ってみせてる”だけで、
どこかでもう一人の自分が醒めてる状態だったはずだ。
(この二面性は稲葉さんご自身の性格に関係している気がする。ライブの時と普段のギャップなど。)

だからこそ、“彼”は『farewell song』の境地にたどり着くことができたのだろう。
狂ったように歓楽と自由を謳っていた“彼”が、「昨日誰に会い何をしたのだろう」と、
ここではふと自分自身を振り返っている。
いったい自分は今まで何をしていたのだろうと、足元を見つめ始める。

「太陽に溶かされかけて 目覚めた時まっしろになってた」(『farewell song』)

彼はようやく、狂気から「目覚めた」のだ。

「さよなら愛する人よ 何もいわずに今いこう」
「しみついた涙を忘れて 知らない時間よ 冷たく僕を包め」
 「しみついた涙を忘れて」「笑いながら手を振ろう」と言う時、
彼は失ってしまった愛に依存するのではなく、
「愛する人」への執着を自ら断ち切って、自分の“人生”を生きようと決意した。

(「いつまでも変わらないで」と愛する人が祈っても、
「このままじゃだめだ」と前を見据える『破れぬ夢をひきずって』も 同じ境地に達している。)
あの悪夢のような深い哀しみと、狂気の狭間で苦しみぬいた“彼”が、
ようやく人生を生きることに立ち返ってきたのだ。
この『farewell song』が、7thの2枚のアルバムの最後を締めくくるのは、とても感動的だ。

「今の僕には何もない ただひとつの燃えるいのちがある」
すべてを失った“彼”のなかに今、「いのち」が燃えている。

『LOVE IS DEAD』『Don't leave me』から出発し、『farewellsong』へ到達する『The 7th Blues』。
『The 7th Blues』というアルバムには、二枚組の作品全体で、喪失からの再生が体現されている。


4、喪失の時代を越えて
7thという喪失と哀しみの時代を越えた時、稲葉さんがうたったのは、失った愛への哀惜でも、
他者からの愛を希求することでもなかった。
翌年リリースされた『LOOSE』(95年)で歌われているのは、他者の愛に依存するのではなく、
自ら愛をはきだしていくということだった。

「love me,けちってないで ボクはきっと愛をもっと出せる」(『love me, I love you』)
「僕を全部あげよう」(『LOVE PHANTOM』)
「Thinkig about you,yes,I konw who made you so blue. I'll be your destination someday」(『消えない虹』)

 “愛は自分から吐き出すべきもの”という稲葉さんの歌詞における哲学は、
『love me,I love you』をはじめとして、
7thの直後(95年以降)から産声をあげたようだ。
7thは、この新たな境地へと向かう、確かなスプリングボードとなったのだろう。


たとえ作者の実体験がなんらかの形で反映されていたとしても、
歌詞はあくまでも創作された「作品」であり、フィクションとして捉えるべきものだろう。
しかしまた、歌詞(作品)には何らかの形で、稲葉さん(書き手)の中にあるものが表現されているとも言える。
歌詞における個々のエピソードや、登場人物や、ストーリーなどはフィクションであっても、
そこに表現されている考え方や、感情だとか、願いだとかには、
稲葉さんご自身の中にあるものが表れてくることもあるのだろう。
7thに胚胎している主人公の深い哀しみに触れる時、私は稲葉さんのかつての心に触れたような思いがするのだ。

2003/12/18 に掲載したものを、2017/2/26 に加筆修正した。

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この記事へのコメント

  • 匿名

    2017年04月16日 20:49
  • 匿名

    うまく言葉に表せない自身の感情を、現在の自身の想いを、感じ取ることができました。そして、なぜか涙も少し…。
    2017年04月16日 20:55
  • nikka

    コメントありがとうございます。
    そして読んでくださってありがとうございます。
    7thは私にとって一番大切なアルバムなので、書いたものにも思い入れがあります。この考察を掲載するためにブログを再開したようなところもあります。だから共感していただけてとても嬉しいです。
    またいつでも遊びにいらしてくださいね。
    2017年04月17日 10:44
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