「CHUBBY GROOVE」考察後編-雄風を感じる時

前回、「CHUBBY GROOVE」の語り手は、ローからハイにスイッチを切り替えるために、意識的に方法を選択していると書いた。前回は主に「BLINK」を中心に考察した。(「CHUBBY GROOVE」考察前編-眠らない語り手

今回は語り手のとった方法を具体的に見ていく。

1、寝ない。(「SAYONARA RIVER」「OVERDRIVE」「BLINK」)
2、やめる(捨てる)。 (「SAYONARA RIVER」「AISHI-AISARE」「NISHI-HIGASHI」
3、完璧さの記憶。(「AISHI-AISARE」「OVERDRIVE」「TROPHY」)
4、ぶっ壊される。(「MARIE」)

やめたり、捨てたり、ぶっ壊される(あるいはぶっ壊す)ことで再生しようとする志向は、「THE CIRCLE」(05年)で見た「破滅と再生の技」の発展形とも思える。(「THE CIRCLE」考察参照)
「CHUBBY GROOVE」ではすでにその技は身についていて、語り手たちは意識的にその方法を選択していくようにも思える。

順番が前後するが、4のぶっ壊される、から話をしたい。

元気を出してまた何かを始めるために、自己を超越したものに一度ぶっ壊される、というのが「MARIE」の語り手だ。
語り手の日常は「最低な日々」である。ローだ。この最低の日々から彼はどうにかして抜け出したい。
稲葉さんのインタビューによると、マリーとはサーフィンをやっていた時にやってきたハリケーンの名前だという。
イントロがいかにも台風の到来を予感をさせる。

それにしても、台風が来たときにサーフィンをやったら危ないだろう。ヘタすると死ぬかもしれない。
けれども、語り手は「いたぶり好きな女王様」であるマリーに「打ちのめして」ほしいし、「もてあそんで」ほしい。自らぶっ壊されることを望んでいる。
マリーがやってきそうな「予感」がするだけで彼は「ムズムズ落ち着かない」。すでに交感神経はオンになっている。

彼は人生のなかで「期待しすぎはダメ」と学んできた。しかし今彼は激しく期待している。
「特別な事なんてないのだと 思い聞かせよう」。これはむしろ、そう自分に思い聞かせなければならないほどに、マリーに期待してしまっているということを示している。

彼は知っているのだ。自己を超越した存在にぶっ壊さっることで、生まれ変わるようにしてまた生きていくことができることを。だからこれほどにも期待してしまう。

「息も止まるようなふれあい」を期待するなんてほとんどドMの世界だが、官能の中に死があり永遠がある、なんて考え方も世の中にはあるし、これはこれで私はとても共感できる作品だ。
波にもまれて死にそうになって、何もかもぶっ壊されて、また生まれ変わるのだ。
(ソロの「台風でもくりゃいい」(97年)とちょっと重なる。)


1、寝ない

稲葉さんはあまり寝るのが得意ではない(なかった)のかもしれない。
ファーストソロアルバム「マグマ」(97年)では、眠れなくて困ってるし、「Time Flies」(09年)では、「あまり眠れたような気がしない」とも歌っている。

一方、稲葉さんの歌詞では、あえて食べない、寝ないことで自分を奮い立たせたり、何かに気づいていくこともある。
「腹が減らないとわからない」(「MR ROLLING THUNDER」)
「血管の中が沸騰するような 異常な事態(ステキな事態)
何も食べないで 眠らないで 思い出してみて」
(「さまよえる蒼い弾丸」)

腹が減ったり一睡もしないような異常な事態にあえてもっていって、そこで初めて自分が本当に求めているものに気づこうとする。

やる気を出すためにあえて寝ない、という選択をする人はそう多くはないだろう。
カフェインで無理やり目を覚ましてなんとか体を動かすといったことはあるにしても。
良く食べて良く寝て、元気、やる気を出す、というのが一般的だろう。
眠るために睡眠薬が処方される世の中だ。

因果関係が逆になるなんて、稲葉さんの歌詞って最高にロックだと感じている。
「CHUBBY GROOVE」は、あえて寝ないことで自分をハイにもっていく作品が目立つ。

「BLINK」の語り手が寝ないことを自ら選択して「闇に向かっても踏み出して行くしかない」と決意することについては、すでに「CHUBBY GROOVE」 考察前編で触れたのでここでは省略する。

「OVERDRIVE」は、寝ないでアルバム作成に打ち込んだサラスがモデルになっている。歌詞はわかりやすく、改めて説明するまでもない。
「一睡もせず火をつけりゃいい」「夢が覚めても もうかまわない ぶっ飛んでく I’m in overdrive」



2、やめる(捨てる)

「SAYONARA RIVER」の語り手は、寝ない。そしてやめて(捨てて)いる。

語り手は「無駄な傷」を負い、「泣き濡れた日々」を送っていて、「意地の悪い世界に吐き気を催して」いる。もう「なにもかもどうでもよくなり 燃え尽き」る直前だ。抑鬱状態である。
語り手はこの局面を越えていかなければならない。その時、彼は「全部」捨てることを決めた。

「かまわないよ 全部 何もかも放り出してしまえよ」

今していることを「何もかも」やめる決意をしたのだ。
仕事なのか、人間関係なのか、持っているものなのか。
いや、言葉どおり「全部」なんだろう。
彼は「バイバイ」と言って、これまでの自分に、そして自分をとりまいていた人々に
別れを告げる。

「皆寝てる間に川を渡れ tonight」「バイバイ 目を覚ましてごらん」

「BLINK」と同じように、ここでも語り手は夜なのに寝ない。
「皆寝てる間」、自分は寝ないことを選択する

そして川を渡って行く。「皆」のいるこちら側から、「皆」のいない向こう側へ。

そして今、ようやく彼は「雄風」を感じる。
雄風とは、勢いよく吹く気持ちのよい風のことである。または、力強く雄々しいようすを示す。
彼が感じているのは、勢いの良さ、気持ちの良さだ
寝ない、捨てることで彼は閉塞感や抑鬱から抜け出していったのだ。


「NISHI-HIGASHI」の語り手も、捨てている。
稲葉さんは最初、「NISHI-HIGASHI」をテーマとしてこのアルバムに関する活動をしようとしていたと言っていた。
曲の最初に稲葉さんとサラスの会話が入っていて、いかにも新しいことをするぞという思いが伝わってくる。

これまでは、何もかもどんより見えていた語り手は、「何もかもが新鮮に光る その感覚」を今取り戻そうとしている。
ローの状態から自分をハイに持っていくために彼はあえて捨てる。

「片っ端から予定を消してしまえ 流れる水のように生きてみよう」

予定をこなす毎日の中で何もかもがどんよりとしてくるから、予定を消す。仕事の予定も何もかも「片っ端から」捨てていく。
嫌々やろうとしていることをやめる。

「オトナになればなるほどコドモになりたくなるもの」

オトナは手帳に予定を書くが、コドモはそもそも予定しない。やりたいことをやりたいときにやるだけだ。
片っ端から予定を捨て、やめて、彼はコドモのように自由になる。

捨てると、たちどころに「ニシヒガシ キタミナミ」あらゆる方向へ行けるようになる

「闇の向こう 誰が待つ」

闇に踏み出すのは怖い。でも、そこに誰が待っているんだろうと、コドモのようにワクワクするような好奇心も湧いている。気分はドキドキわくわく、完全にスイッチオンだ。



3、完璧さの記憶

記憶について稲葉さんは、「GO FOR IT,BABY-記憶の山脈-」の中で、「最高の瞬間を じっと見つめたら 捨てちまえ」と歌っていた。(これも捨てているなあ。)
成長するために最高の記憶を捨て、その記憶を乗り越えていかなければならない時もある。

しかし、思い出すだけで元気が出てくるような、あれは完璧だった!と感じるような思い出は誰にもあるだろう。

「CHUBBY GROOVE」は完璧さの記憶を思い出すことで自分を奮い立てようとする作品がいくつかある。

「OVERDRIVE」の語り手は次のような記憶を思い出している。

「覚えてるかい いつだったろう 海辺のベンチの上で 星を見て 波を聴いて 全てが完璧だったろう」

彼はこの完璧さの記憶を呼び起こし、自分を過熱させていく。



「TROPHY」はネイティブアメリカンの雄たけびのようなものが、テンションの高さを物語っている。歌詞も曲も、思いきりハイになっていくという作品だ。

「1.2.3.4 いまそびえたつ金字塔」

金字塔とは「後世に永く残るすぐれた業績。不滅の業績。」(大辞泉)である。
人が作った金字塔かもしれないし、自分自身が作った金字塔なのかもしれない。
いずれにしろ不滅の業績を越えるのにはエネルギーが必要だから、彼はカウントし、気合を入れ、思い切って走ろうとしている。

そして、走るために、できれば「トロフィー」が欲しいと彼は思っている。
稲葉さんは2017年のwowowの番組にて、「トロフィー」について次のように答えていた。

「詞を書くときにこう、アスリートを想像していたと思うんだけれども、その、順位だとかメダルとかトロフィーですか、そういう結果を目指してみなさん頑張っていらっしゃると思うんですけれども、それを目指して頑張る過程で、何か最後に実物のメダル、トロフィー、それ以外に、自分の中に決して消えることのないトロフィーみたいなもんが生まれるんじゃないかなと、なんか自分もそういうものを目指したいなという気持ちをこめて作りました。」

主人公が欲しがっている「トロフィー」とは、頑張る過程で最後に生まれる、自分の中に消えることのないトロフィーだと稲葉さんは語っている。
トロフィーとは、優勝や入賞などの勝利を記念して与えられるカップ・盾・像などである。
優勝、勝利とは完璧さそのものである。その勝利を忘れないように記憶するものがトロフィーである。
トロフィーはまさに完璧さの記憶そのものだ


さらに稲葉さんは、トロフィーが頑張る過程で生まれると言っている。
だから、ここでのトロフィーとは、必ずしも実際の試合の勝利を讃えるものとは限らないのだろう。
手を抜かず努力して頑張ったこと、それ自体が完璧な記憶となって今後の自分を支え、奮い立てていく、ということなのだろう。

「できればお願い 錆びつかないトロフィー
どんな勝利も 寄せ付けないようなトロフィー」


中途半端なトロフィー(中途半端な努力の記憶)ではすぐ錆びつき、色あせた思い出となってしまう。完璧なトロフィー(手を抜かず努力したという完璧さの記憶)が欲しいと彼は思っている。それを最後に得るために彼は今手を抜かずに走る。
完璧さの記憶があれば、また走ることができる。自分が手を抜かず真剣に頑張った記憶を思い出すたびに、また自分を奮い立てることができるから



「AISHI-AISARE」では、完璧さの記憶を思い出し、「君」以外のものを捨てている。

「僕」と「君」は「言葉が暴走して」喧嘩別れをしたようだ。
「君がいればすべてオーライ」と気づくまでには少し時間がかかったようだ。

「必死の思いで手に入れた宝が いつしか重くのしかかる」

その時欲しいと思ってようやく手に入れたものが、いつしか負担になっていく。
あんなに欲しかったのに、あんなに必死だったのに、コレジャナイと感じてしまうようになる。
人はすぐに大事なものを見失う。
「僕」は、何が一番大切で、本当に欲しいものはなんなんだろうと考えたことだろう。
ゆずれないものはなんなんだろうと。

そして「君」の「感触」を思い出す。「ゆずれない感触」だ。
感触とは、手触りであり、ぬくもりを感じることだ。
「Touch」が分かりやすい例だが、稲葉さんの歌詞においては何よりも、手触りやぬくもりが信じられている。言葉よりも、約束よりも。このことについては稲葉歌詞の幸福の感覚 ぬくもり至上主義 で考察している。
稲葉さんの歌詞において、手触りやぬくもりは最上級のものなのだ
だから、「優しい感触」は、「僕」にとってまさに完璧さの記憶に他ならない

「春の陽のように優しい 夏の雨のように優しい 秋の予感のように優しい 
 ゆずれない感触」


「春の陽のように」「夏の雨のように」「秋の予感のように」と、彼はその完璧さを比喩で表現しまくる
素晴らしすぎるものは、言葉を尽くしていろんな表現をしたくなるものだから

でも彼は結局、その完璧さを言葉では表現しつくせないいや、しつくさない
“春、夏、秋、冬、よしうまく表現できたぞ、はい終わり”なんかで済まないのだ
だから冬の比喩はない。言葉では完結できないものなのだ
(彼は今「無我夢中」になっていくところだし、冷静にパーフェクトな比喩表現を考えてる場合でもない、という感じもする。)
彼にとって「君」の「感触」は、言葉を尽くして表現したいものであり、また同時に、言葉では全てを言い表すことができないほど完璧なものなのだ

“彼女の感触は~のようで、~のようで、~のようで、う~ん、いやもう言葉では言い表せないよ、とにかく僕にとって「ゆずれない感触」なんだよ、早く取り戻さなきゃ!”
なのである。

「君がいればすべてオーライ」とは、裏返せば他のものは何もいらない、ということだ。
かつて「必死の思いで手に入れた宝」はすでに重荷でしかなく、自分にとって必要のないガラクタとなっていることに彼は気づいている。
「僕」は完璧さの記憶を呼び起こし、「君」以外のものを捨て、「無我夢中」というハイな状態になり、再び「君」のぬくもりを取り戻そうとする。


「CHUBBY GROOVE」を聴いていると、高揚感とともに安堵感を覚える。
サラスによるCHUBBYなGROOVEがそう感じさせるところも大きい。聴いていると踊り出しそうだ。
そして、自分がどうしたらいいか一旦は見失っても、行動を選択して雄風を感じていくその姿に、私自身も共鳴したからなのだと思う。


2017年3月2日 up date

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