「ARIGATO」―宿命の受容

『ARIGATO』(2004年)は、愛する者の存在により、自分の宿命を受け入れていく物語だ。


宿命とはこの場合、語り手が「僕のゆく道」を進んでいくことだ。
言うまでもなく「道」とは、自分がどのように生きていくかということである。

これまで稲葉さんの歌詞には、“自分の道を歩むこと”について何度も書かれてきたが、
稲葉歌詞では、どんなに心が通じ合った人でも、同じ「道」を進んでいくことはあまりない。

「同じ道をゆくわけじゃない それぞれの前にそれぞれの道しかないんだ」(『Brotherhood』)
「最後の最後はひとりぼっち 胸のなかにだけおまえがいる」(『SHINE』)

それぞれの前にそれぞれの道があり、全ての人は、ひとりで自分の人生を歩む。
『SHINE』で歌われるように、自分の道を歩むことは、孤独なことだ。
稲葉歌詞において自分の道を歩むことは、自分に甘えを許さず、厳しく自己追求をすることである。


「さよなら愛する人よ 何もいわずに今いこう しみついた涙を忘れて 知らない時間よ 冷たく僕を包め」

 『farwellsong』の主人公が、哀しみをふりきって、「さよなら」と言うとき、
彼は自ら「愛する人」への執着を断ち切って、自分の人生を生きようと決意している。
「知らない時間よ 冷たく僕を包め」と表現されるように、それは冷たく孤独な旅の始まりだ。
 
稲葉歌詞の主人公たちは、自分の道を進んで行くと決めたら、どんなに大切な人がいても、
その人たちのもとを離れて、厳しく険しい新たな場所へと踏み入っていく。
心が通じ合った大切な人のことは、しかと胸の中におさめて。



『ARIGATO』の語り手もまた、愛する人のもとを去り、自分自身の道を歩み始めようとしている。

「ただ強く 抱きしめりゃよかった わかってるのに何もできず」
「白い月は刀のようにとんがり 僕のゆく道 ぼんやり照らす」

語り手が泣いている「君」に何もできなかったのは、「君」への愛情が薄れたからではない。
自分の進むべき「道」が、「ぼんやり」ではあるが、確かに見えてしまっていたからに他ならない。


「歩きつづけた先に見たいのは 想像を超える風と光 そこに誰もいなくても」

とどまれば、あたたかく、「君」のいる風景のなかに居ることができるだろう。
「君」とともにあれば、いつもと変わらぬ日常が、彼を癒すことだろう。
しかし、彼は愛する人から離れ、自分の道を追及し、まだ見たことのない景色を見ようとしている。
「そこに誰もいなくても」、という言葉が示すとおり、
これから歩もうとしている道が孤独であることも、彼は確実に感じ取っている。
それでも、彼が見たいのは、いつもと変わらぬ日常ではなく、「想像を超え」るものだった。
 

「やさしさがズブリ胸につき刺さる」
彼は今、「君」の「やさしさ」を、痛いほどに深く感じとっている。
いったいそれは、どんな「やさしさ」だったのか。

「君が泣いてたこと知ってるけど それを君だって知ってたんだろう」

語り手が泣いている「君」を抱きしめることができずにいた時、
「君」もまた、主人公が何もできずにいる理由をちゃんとわかっていたのだ。
「君」はただ別れを悲しんでいただけではない。
「君」も、彼が何故行かなければならないかということを理解していたのだ。

『New Message』、『野性のENERGY』、『BANZAI』などの歌詞において、
切ない思いを抱きながらも、これから出て行こうとする人を祝福し優しく見送った人のように、
『ARIGATO』の「君」もまた、泣いて別れを哀しみながらも、彼の門出を祝福していたのだろう。

語り手にとって、まぎれもなく「君」はかけがえのない人である。
それは「君」にとっても同じことなのだろう。
「君」は、主人公に行かないで、と言うこともできたはずですだ。
でも、「君」はそうはしなかった。
その深いやさしさは、語り手の胸を「ズブリ」とえぐり、痛みや切なさ、苦さやしょっぱさを残す。


「思うのは君のことで それだけでいい 扉を開けてみよう そこに誰もいなくても」

 愛する人のもとを離れることは辛い。
離れても、胸のなかに「君」がいれば「それだけでいい」と彼は言う。
彼はそうして心に深く「君」という対象を内在化させていく
(「SHINE」では「胸の中にだけお前がいる」と言って、やはり「お前」を内在化させている。)


「痛くても切なくても このままいこう」
「苦くてもしょっぱくても 飲み込んでしまおう」

彼自身が吐露しているように、本当は彼は出て行くことが、「痛くて」「切なくて」、
「苦くて」「しょっぱい」。痛みをともなっているのだ。

『ARIGATO』はシングルとして正式にリリースする前に、別バージョンの歌詞が存在している。
そちらでは、「飲み込んでしまおう」の部分が、「何もかもはきだしてみたい」となっている。
彼は、痛み辛み全てを吐き出してしまいたいという気持ちを持ちながらも、
それでも一歩前に踏み出すために、懸命にそれを受け入れようとしているのだろう。


「君」は心の中からなくせない、かけがえのない存在だった。
だが、最も大切な人を前にしながら、主人公には「僕のゆく道」が見えてしまっていた。
そのどうしようもない一つの明確な事実によって、彼は懸命に一歩を踏み出す決意をする。

先にも述べたように、これは、「君」と「僕のゆく道」のどっちが大切か、という問題ではない。
彼に見えている「道」は、“大切”とか、“重要”とか“特別”いう言葉―つまり、価値で説明できるものではないからだ。
では、どういうことなのか。


いつか見ていた空 たぶんこれはいつか聞いてたstory

まぎれもなく、これはデジャヴである
今見ている空、今彼が体験しているこの物語を、彼はいつかどこかで(もしかしたら生まれる前から)見ていた。
雨粒の落ちる曇り空を見上げ、愛する人のもとを去り、自分の道へ踏み入る決意をする物語を。

そして今、彼はいつか見た予兆を、現実として体験している
予兆が現実となること。デジャヴを見ること。私たちはそれを、“運命”とか、“宿命”と呼ぶ

このデジャヴを見た時から、彼は「僕のゆく道」を、“宿命”として受け入れていく
宿命や運命に、価値や値札をつけることはできない。
太陽が東から昇って西に沈むことに価値は付けられないし、それを、リンゴが地面に落下することと比べ、どっちが大切かを決めることなどでない。
宿命は、何かと比べてその重要性を価値判断することなどできないものだ。

宿命とは、必ずそうあるべきものなのだ。そのように決まっていることである。
語り手が「君」のもとを離れて、自分の道を進んでいくと決めたことは、決して「君」よりも自分の道が大切だったということではない。
それはもう、ただただ、宿命だから、としか言いようのないことなのである。

このデジャブの直後から、がらっと勇ましい曲調へと変貌する。
それまで「ぼんやり」していた自分の「道」を、確かな宿命として受け入れることができた時、彼は「僕のゆく道」に踏み入っていく勇気を手に入れたのだ。

何も失うものがなければ、彼は進みやすかったことだろう。
しかし、愛する人がいて痛みを感じているからこそ、自分の道を宿命として受け入れることができたとも言える。
最も大切な人を目の前にして、なお自分の「道」が見えてしまった、そのどうしようもない事実が、
譲れない自分の「道」があることを彼に強く認識させていったのだから。

 
「ありがとう ありがとう ありがとう ありがとう」

自分の進むべき「道」が宿命であることに気付かせてくれた「君」への「ありがとう」であり、
前に踏み出す勇気をくれた、「君」への「ありがとう」だったのだろう。


「星は消え 影も消える それでもいい」

歩き続けた先に彼が見たかったのは、「想像を超える風と光」。
しかし、行き着いた先が、光も影も無い暗い世界だったしても、「それでもいい」と言えるだけの覚悟が今、彼のなかに出来ている

2004/9/7 に書いたものを2017年3月3日に加筆修正。

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