「マグマ」という名の衝動―マイナスからゼロへのシフト

稲葉さんは多くを語らない。だが、稲葉浩志の作品は饒舌に語っている。

もちろん、歌詞の内容がノンフィクションであるということではない。
しかし、ファーストソロアルバム「マグマ」には稲葉さんに固有なるものがより濃厚に、より親密な形で表れているように思う。

セカンドアルバム「志庵」リリース時、BS特別番組におけるインタビューで稲葉さんは、「マグマ」制作時には心の底からまさにマグマのように激しく噴出してくる衝動があったと語った。
「マグマ」という言葉は、表現へと自己を駆り立てる衝動的なエネルギーのことなのだろう。
以下、その内実を見ていく。

1、自己矛盾の自覚

アルバム「マグマ」は、「冷血」から始まる。
「冷血」の語り手は、他人に対して良い人としてふるまいながら、同時に己の冷たさや身勝手さに気づいてしまっている。
自分の都合しか考えていないのに、他人からは良い人と思われようとする。捨てたもの、失ったものの大切さに気付かないまま、新しいものへと目を奪われていく。自分に対しても、他人に対しても、嘘をつきながら生きてしまう。
自己矛盾の強烈な自覚がここには示されている


「僕のインチキもイカサマも ひとつ残らずあばいて
愚かな嘘のあり地獄から そっと手をとり連れ出してくれ」(「くちびる」)

「くちびる」からは、自己矛盾から解放されたいという思いが読み取れる。

前掲番組におけるインタビューで、稲葉さんはこのようにも語っている。
「周りに何と言われようとも自分はこのアルバムは絶対に『冷血』から始めるべきだと思っていた。」

であるならば、“自己矛盾を赤裸々にあばきたてること”。これが「マグマ」の制作動機の一つだったと言えるだろう


お酒の飲みすぎで気分が悪い。吸いたい煙草が置いてないから自販機を壊した。人には笑われ、サウナには入れず、出迎えてくれるはずの愛猫もいない。
挙句の果てににちゃらちゃらしたやつに車をぶつけられる。次から次へと、くだらないことばかりが起きて、いちいち悲しんでいるひまもない。
でも、「悲しむひまなどない どれもこれもがささいで 冗談ばかりで また消えてゆくよ」

「台風でもくりゃいい」の前半部に羅列された出来事は、笑えてしまうようなことばかりだ。「僕」自身も、それは「冗談」のようなものなのだ、という認識を持とうとしている。
しかし、こうして羅列していくことが、むしろ、こうした「ささい」な出来事にこだわってしまう「僕」の心を物語っていると言えるだろう。

「僕」は「やなこと」をずらずらと羅列して、自虐的な気分に自分を追い込んでいく。

「台風でもくりゃいい でっかいのでも来てくれりゃ 彼女に会いにでかけてみたい
やなこと 全部帳消しにしたい」

自分ではどうすることもできない「僕」は、台風にカタルシスを期待するしかない。
何もかもぶっ壊されてゼロになるしかない。

「泣くな騒ぐな卑屈にゃなるな」

実際は泣いて騒いで卑屈になっているからこそ、こう言い聞かせるのだろう。
私はこの曲を聴くと笑いがこらえきれない。そうだ、これはそういう歌なのだ。
「僕」こそ笑いたいし、笑われたいのだ。もう笑うしかない、笑ってくれ、というやつである。

酷すぎる現実をげらげら笑って、無理にでも「倍テンでいっちゃう」しかない
自己戯画化である。自分をギャグマンガ化する。狂う、とも言えるかもしれない
「JEAROUS DOG」にも同じことが言える。疎外感でいっぱいで辛くて仕方ないから、もう大好きなワンワンになって本当にワンと吠えるしかないのだ。


2、あるがまま志向

「そのSwitchを押せ」前半では、感傷的・自虐的なそぶりを見せることで、他人の同情を買おうとしている。
だが、後半では、そうした不遇の誇張や自己の矮小化をやめて、ものごとをありのままに捉えながら生きていくことが志向されていく

「正しいとか間違ってるとかじゃなくて 動かしがたい場面があって ただ一つ事実を受け取る そのスタイルを磨けよ」

ありのままに事実を受け取ること。このスタイルが磨かれれば、泣かず騒がず卑屈にならずにいられるに違いない。
だが、「ただ一つ事実を受け取る」ことは案外難しい。「押せよやれよ」と自分に言い聞かせても、スイッチはなかなか押せない。

「僕」はあるがままに感じるという理想的な生き方に気付いていながら、そこへ踏み込んでいけない。


「波」では、本当は全てをありのままに受け入れ「君」を心から愛したいのだが、今はまだ「僕」は自分のことで精一杯だ。

「すがりたい人も待つ人も全部なくしてしまいたい 本当にひとりきりになってさまよってみたい そんな勇気のない自分を笑ってまた嫌になるよ」(「波」)

いっそ一人になって人との関わりあいから生まれる苦しみから解放されたいと思うほど、痛みは深い。そして自己矛盾と自己卑下に苦しむ。ここでも「また」自己嫌悪である。

「眠れないのは誰のせい」では、 人の幸せに対して心から喜んでいるわけでもないのに、満面の笑みを浮かべてみせている。
「僕」は、本当の気持ちを押さえつけていい人ぶることに、またうんざりしている。
胃は痛む、不眠症になる、抑鬱状態になる、薬も効かない。
こんな現実は最低なのだから、本当は自分に素直になるべきだとわかっている。
でも「僕」にはそれがなかなかできない。

「なんか気持ち悪い きっと本当はわかってる 自分のなかであつい戦いが始まってること ねえ もういいだろう 明日にしましょう」

「あつい戦い」とは、己に素直になろうとする気持ちと、いい人ぶる気持ちとの対立であり、言い換えれば、あるがままに感じようとする自分と、卑屈になってしまう自分の戦いである
だが、結局のところ彼は戦いの決着を「明日」に持ち越し、保留にしてしまう

抑鬱状態で眠れないときは何もしたくなくなるものだ。ひどいときは風呂に入るのも面倒くさくなる。語り手はもう、考えるのも面倒くさいという危機的状況に陥っている


「マグマ」の語り手はどうすることもできなくて、他者(「あなた」や「あの子」)に救いを求めている。
あるいは自己を超越したもの(台風)にカタルシスを期待する。
だが救いもカタルシスも訪れはしない。
あの子の肌に触れても落ち着かない。台風も来ない。自己戯画化して笑ってみても、あまり具合はよくならない。


3、ニヒリズム(虚無感)

そして、極度のニヒリズム(虚無感)に陥っていく。

「全てはただ過ぎ去っていくよ ちりのように吹き飛んでGONE・・・」(「台風でもくりゃいい」)
「夢だろう全ては 生まれてくること死ぬこと」(「arizona」)

形あるものは壊れ、命あるものは死んでいくという、ある意味仏教的な考え方をすることによって、この世的な苦しみの一切から解放されようと試みる。
しかし、この試みは悟りをもたらすものではない。

「arizona」では「痛いよ ああ痛いよ」と、しきりに痛がっている。「このまま埋もれて 素敵な生まれ変わりなど 信じてみようか」というのは、その痛みからなんとか身をそらそうとするニヒリズムである
だから、「マグマ」のニヒリズムは、投げやりな諦観とも言うべきものであろう
もう、ほとんどヤケになって、むなしがっているのである。
(「Little Flower」では、このニヒリズムが「むなしがりやの夢」と表現されている。)

語り手はこうしたニヒリズムに浸ることで、自分の感覚や感情をマヒさせ、さまざまな痛みからなんとか身をそらそうとしていたようにも私には思える。もう傷つかないように、もう何も感じないように。

そして、極度の虚無感から、死の想念にとりつかれていく。
「soul station」ではこうである。

「夜の闇は死ぬほど深く」
「希望は沈みゆく」
「くだらない世界」
「 退屈な世界」
「君をだいなしにして」
「死にかけている僕のたった一つのsoul」

ここに示されているのは、何もかも終わっていくという感覚である。
この時、語り手に確実に「死」が意識されていたと言っていいだろう。

「arizona」の語り手は「ヘッドライトを消して走ろう 冷えた地面に寝転がろう 何かが遠くで吠えている それでも僕は怖くない」と言う。
アリゾナの荒野の夜は闇である。
私は2010年にアリゾナの荒野に実際に行った。そこで闇の中、語り手と同じことをしようとしたが、命をおびやかすような恐怖感が襲ってきて、私にはとてもできなかった。
「それでも僕は怖くない」と語り手が言うときは、死への覚悟や諦観があるのだろう


「なにもないまち」では事態は深刻だ。

「なにもない なにもない なにもないまちじゃ ここにいるいみがない」

まるで呪文のように単調に、ひらがなとカタカナで言葉が連ねられている。
かなしいとか、さみしいという自然な感情はここにはない。
極度の抑鬱状態、極度のニヒリズムから、本当に何も感じられなくなっているのだ
あるいは何も感じないようにしているうちに、抑鬱状態になっていったのか。

自然な感情がこぼれていって、何も感じていなかった頃のことが「Little Flower」では、このように回想されている。

「今までの僕はひびわれたグラスだと」
「ぽっかりあいた穴から 何もかもこぼれてる 本当には嬉しくも 悲しくもないようなこの心」(「Little Flower」)



4、他者とともに、あるがままに生きること。

だが、「マグマ」はただ暗い気持ちになっているばかりではない。「風船」「arizona」「波」「愛なき道」「Little Flower」などには、自己矛盾の苦しみや虚無感だけではなく、ほのかな光が見え隠れもする。

「愛なき道』の二人は、「愛の理想」に近づくために、「愛という名のルール」にしばられていた。世間が“これこそが愛だ”と決めているような「愛の理想」、それは愛のマニュアルと言い替えてもいいだろう。「あるがままの相手」を見つめることなく、マニュアル化された愛し方をして技巧的な関係を築いていたのだ。
そんなマニュアル化された愛のありかたに、彼らは次第に疲れていく。

「けっこう疲れたってことは休めってことだろう」
「愛のない長い長い道をぶっとばしていこう」

 彼らは自分に無理を強いるようマニュアル化された愛を捨て、「あるがままの相手」を見つめあって、 肩の力を抜いて、自然に生きていこうとする。


「Little Flower」では、こう示される。

「君のわかりやすい笑顔が 意識の底に話しかける
あなたのその胸をさいてどろどろの心を見せてと
目を覚まそう むなしがりやの夢はもう終わる
うなされてる僕の指を君がつかんでくれる 強くしっかりと」

語り手は、隣にいるあたたかなぬくもりを持つ「君」と共にあることで、「むなしがりやの夢」を見て「ひとりよがりのドラマ」を作るという不自然なありようから、「どろどろの心」をあるがままに見せるという自然なありようにたどりつくことができたのだ。


自分に素直に何かを感じるという自然なありようへとシフトできたのは、語り手が他者との関わりのなかで生の実感を獲得していったからであろう。


「arizona」ではニヒリズムに浸り死を意識していた語り手が、「あなた」がくれた口づけのぬくもりを思い出すことで、 「離れることで強くなっていく」絆を再確認し、「あなた」との関係性に生の可能性を見出している。
「風船」の二人も、別れに際しながら、ともに苦しみをわかちあい、これからもふたりのあいだの絆を育てようとしている。

「安らぎも不安も消えることはない 他人を見つめてみんな生きているから」(「波」)

 「波」の語り手もまた、他者との関わりのなかで生きることの内実を取り戻していったのだろう。
生きるということ。それは、痛みをもうこれ以上感じないように「むなしがりやの夢」や、 「ひとりよがりのドラマ」を見ることじゃない。そんなふうに自分を「空っぽ」にすることじゃない。他者との関係性のなかで生じる「安らぎ」や「不安」、そんな様々な想いをただあるがままに、自然に感じ続けていくということなのだと

楽しいとき、幸せなとき、安らかなとき、人は生きていることを実感する。しかし、傷ついたり、さみしかったり、不安なときにも人は生を実感するのではないだろうか。血が流れ、痛みを感じる時、生きていることを痛感するように。
そんなふうに「ときにはげしいさみしさと戦いながら」(「愛なき道」)生きるとき、その生を確かに実感できるということなのではないだろうか


「マグマ」は、自己矛盾を暴き立てる「冷血」から始まった。
卑屈にならず自分に素直に生きるということは、語り手にとって理想のありようだった。
しかしそこに踏み入っていくことができず、一人きりで煩悶し続け、事態はどんどん悪化していった。
無理をして理想を追いかけたり、すべてを夢だと思うことで痛みから身をそらそうする。
それらは、とても技巧的で不自然なありようであり、ついに強烈な虚無感から「空っぽ」になってしまった。
しかし、語り手は他者との触れあいのなかで、いつしか気づいていったのだろう
自分に素直になるということ、あるがままに生きるということは、他者との関係性のなかでその場面場面で「何かを感じて」いくことなのだと。

「マグマ」は、自己矛盾を自覚する「冷血」に始まり、かつてのそういう己を回想し、最終的には他者とともにあるがままに生きることに向かっていく「Little flower」で締めくくられている

 2002年、BSのNHK特別番組のなかで、稲葉さんは「マグマ」制作時をふりかえって、次のように語っている。

「今思えばマグマっていうのは、マイナスのところからゼロにむかって、
こう、そこに到達するためにやってたような感じがしましたけども・・・
もうそこに到達しなきゃしなきゃっていう気持ちがあったような気がするんですけども・・・」

マイナスからゼロにシフトする。
それは、死から生へと立ち返ってくることだったのかもしれない。

 

現在では稲葉さんの歌詞の定番のテーマとも言える“あるがまま志向”を確認したが、「マグマ」はこの志向の原点であると言えるだろう。
見てきたように稲葉さんのあるがまま志向は、単なる理想論ではない。また、思索の果てに導き出されたような、崇高なものでもない。そのような遠いものではないのだ

稲葉さんのあるがまま志向は、一人の人間が生と死のはざまでもがき苦しみ、いつしか他者との関係性のなかで自然とたどりついたありようなのではないだろうか

「正しいとか間違いとかじゃなくて 動かしがたい場面があって 自分がいて何かを感じてる そう自由に感じてみればいい」(「そのSwitchを押せ」)

あるがままに「何かを感じてる」自分であること。それこそが“生きている”ということである。
“生きる”。しかし、そんな当たり前のことが、存外難しいのかもしれない。傷つき病みやすい心を抱える人間という生き物には。

汗が蒸発してゼロになろうとするとき気化熱が生じるように、マイナスからゼロへの―死から生へのシフトにおいて、多量の熱量が生じたことだろう。
その熱量が、「マグマ」という名の衝動となって、稲葉さんを音楽製作へとかりたてたのかもしれない、そんなふうに私は思う。
時を経て、「マグマ」という名の衝動は、今はこごって、その黒い岩肌を私たちの前に見せている。激しく噴出したマグマの軌跡がここにある。ごつごつとしたその岩肌の前に立つと、その時のマグマの熱さを今も感じる思いがする。

2005年3月2日に書いたものを2017年3月8日に加筆修正した。

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