「静かな雨」―訳アリな大人のファンタジー

『静かな雨』(作詞 稲葉浩志 マキシシングル『KI』収録 VERMILLION RECORDS 2003)

はじめに
誰もが一度は、日常のふとした時に、楽しい物語を思い描いたことがあるのではないでしょうか。
たとえば私は、ファンクラブで予約したライブのチケットを待っている時などに、もしもM&Gに当たったらB'zのお2人に何を話そう!なんて楽しい空想をします。
これではただの妄想、かもしれませんが。

では、たとえば小さな子どもが、クリスマスの朝に枕元のプレゼントを見て、サンタさんがいることを信じたとしたらどうでしょうか。
私はそれを意味のない妄想だとは思いません。
その子どもにとっては、「サンタは存在しない」ということより、「サンタさんがいる」ということのほうが、確かなリアリティをもって感じられているのであり、その子にとってそれは妄想でも夢でもなく、真実であり現実だからです。
その子の心のなかの現実においては、サンタさんはまぎれもなく存在しています。
子どもは、そんなふうにして、ごく普通の日常のなかにファンタジーを見ています。

哲学者の小原信さんは、このように言及されています。

「ファンタジーはただのお話ではない。またただ現実ばなれのした世界を描いたものでもない。むしろわれわれがふだん何気なく心に描いていることで、起こりうるかもしれないこと、起ってほしいと思っていること、また、じっさいに自分に起きたことなどを、いささかフィクションじたてにしてドラマ化したようなものである。」(『ファンタジーの発想 心で読む5つの物語』小原信 新潮社 1991)

ファンタジーは、決して別世界のお話ではなく、日常のなかで見え隠れするもの。
“こうあってほしい”という願いを、想像の綾糸で物語として織り成す時、その人はその人のファンタジーを見ているということなのです

だから、大人だって日常のなかで、何かをきっかけにファンタジーを見ることができます。

『静かな雨』の語り手は、実際に彼の身に起きたこと出来事を「甘い妄想」によってドラマ化し、「ほんの数分間」の物語を編んでいます。彼は、まさに日常のなかにおいて、ファンタジーを見ていました。

ファンタジーを見るということが、実際に起こってほしいことをドラマ化することであるなら、『静かな雨』の物語には、満たされない主人公の願いが体現されていることになります
彼が創った物語は、“こうであったら良いのに”という彼の欲望そのものであるということです。


1、欲望のベクトル

「憂鬱な朝の渋滞の中で横にならんだタクシー 後ろにひとり座っているのは君によく似た人」
「静かな雨に声も出せず胸だけが高鳴り くもったガラスを手のひらで拭いて横顔を見ていた」


 文字通り、語り手にとって日常は「憂うつ」でつまらないものでした。
そんな「憂うつ」な気分を忘れさせ、胸を高鳴らせたのが、「君によく似た人」の登場でした。

「あの時は良かったなあ」と過去を解釈し、過去が素晴らしいものになればなるほど、今現在に物足りなさや、つまらなさを感じてしまうように、現在の幸福は、過去の出来事や経験を今の自分がどのように解釈するかで決まってきます。
語り手が今現在の日常を「憂うつ」なものとして捉える一方で、過去の恋人に良く似た人を見つけて声も出せないほど胸が高鳴るのは、「君」との過去の関係が、いかに彼にとって素晴らしいものであったかということを物語っています。

しかし、語り手は単純に過去を思い出しているわけではありません。

「あの頃あんなのなかった なんて心で話してる」

「あの頃」という言葉は、今現在から過去を振り返ることによって発せられる言葉です。
だから彼の創った物語の時間軸は、過去ではなく、あくまでも現在にあります
彼は「君(によく似た人)」に昔と同じように話しかけ、ともに過去を振り返ろうとしています。

つまり、彼の欲望は、現在において「君」との関係を再構築することに向いているのです。


2、“人と人を繋ぐもの”として期待される雨?
物語の舞台に雨が降っているということもまた、彼の秘められた願いの深さを示しているように思います。

稲葉歌詞において雨が降っている時は多くの場合、語り手は相手に対して情熱的な愛情を注いでいます。『愛のままにわがままに僕は君だけを傷つけない』、『TIME』、『闇の雨』、『熱き鼓動の果て』、『LOVE LETTER』などの雨の歌において、
主人公の気持ちはかなり盛り上がっています。これらの作品では、雨(時にどしゃぶり)などものともしない想いの強さが表現されています。

『闇の雨』では、雨の向こうに「あなた」が待っていることを期待しているし、『愛のままにわがままに僕は君だけを傷つけない』に至っては、「ふりしきる雨のなかで ほこりまみれの絆も輝きはじめる」くらいですから、稲葉歌詞における雨は、“人と人を繋ぐものとして主人公に期待されているもの”と言えそうです。(『Overture』と『ブルージーな朝』の雨については、また今度・・・)

『静かな雨』では、雨が降っていることによって、「僕も君に似た人もナメクジみたい」になっています。
静かに降る霧のような雨によって、ふたりは「ナメクジ」のようにどろどろになり、はっきりした輪郭をなくしています
この物語において、雨は、主人公と「君」との境界線をなくしていくものとして機能しているのです。
 また、遠くの高層ビルは、「かすんでる最上階」として彼の目に映っています。雨は、現実の像をかすませ、彼の願いが叶う場(ファンタジー)へといざなってくれるものとして描かれていると言えるでしょう。「雨」は、この物語に欠かせない重要な演出となっているのです。


3、訳アリな大人のファンタジー
日常では満たされない願いが、夢のなかで体現されるという作品に、『ある密かな恋』があります。
語り手は雑誌で見かけたモデルに恋をして、夢の中で彼女に会えたことを喜んでいます。
彼は夢をそっくりそのまま、実際の現実に置き換えたいという欲望を持ち続けますが、現実を実感するたびに、“今の彼女にはこんなヤバイこと言えない”と焦りや不安を感じたり、満たされない気持ちのまま、“このままずっと君を想って生きていこう”と、切ない気持ちを抱えています。

可能か不可能かはともかくとして、『ある密かな恋』の主人公には、夢を現実に置き換えようとする発想があります。
しかし、『静かな雨』の主人公には、こうした発想はありません。
彼は、実際の現実にではなく、あくまでも彼のファンタジーのなかにおいて「君」との関係を再構築しようとしています
彼は決して、実際には窓を開けて彼女に声をかけたりはしません

なぜなら、実際の現実において過去の恋人だった「君」との関係を再構築してしまったならば、たちまち罪悪感や痛みや苦しみが押し寄せてくることを彼は知っているからです。
どんなに普段の生活が「憂うつ」でつまらないものであっても、彼が今現在の生活のなかで築いてきたものや、背に負っているものを今さら投げ出すことはできないのです。

彼は、現実において自分の願いが体現することを許せません。
夢見たファンタジーが、実際の現実になった途端、「甘い妄想」だったはずのものが、たちまち「MOTEL」や「春」のような悲劇と化してしまうことを、彼はどこかで予感しているのでしょう。
しかし、彼の願いがファンタジーとして体現されている限りにおいて、彼は何の良心の呵責も痛みも感じることなく、罪悪を意識することもなく、「君」との関係を再構築することができるのです


「眠くなるようなはやさで みずたまを蹴散らしてく」

「眠くなるような」という状況から始まる冒頭は、彼が今まさに、夢のようなファンタジーへと入り込もうとしていることを示しています
そして、「静かな雨」のなかで、実際の現実世界はにじみ、かすみ、不鮮明になり、「ほんの数分間のランデブー」のあいだ、彼に不思議なファンタジーを見せていたのです。

しかし、雨があがると同時に、現実はくっきりと鮮明にその像を浮かび上がらせます。
彼が窓を開けてみても、「そこには誰もいない」。
ファンタジーは、雨がやむとともに、あとかたもなくどこかに姿を隠します
語り手が、「交差点を曲が」れば、そこにはまたいつもの日常風景が広がっているのです。
 
切り取られた「ほんの数分間」の物語として消えていくからこそ、この物語は彼自身にとってどこまでも美しく心地よいのであり、そうであるから彼は自分自身にこの物語をファンタジーとして許すことができたのだと言えるでしょう。
逆に言えば、この物語はファンタジーとして消えていくものでなければならなかった、と言えるでしょう。

稲葉さんは、『KI』リリース時のインタビューにおいて、『静かな雨』の歌詞はどうやって書いたのか、という佐伯さんの質問に対して、「どっか切り取った場面みたいな感じにはしたかったと思うんだけど」と答えていました。
私には、それがなんとも意味深な言葉に思えるのです。
稲葉さんはまた、同インタビューで、この曲のウリッツァの音に関して、次のようにおっしゃっていました。

「ウリッツアの音がすごい好きなんですよね(中略)ウリッツアのほうが陰があるというか・・・事情がありそうな音というか(中略)そう、訳ありなかんじがするんです(笑)」

なんとも儚いウリッツアの音色のなかに、私は語り手の満たされない願いを見る思いがします。
稲葉さんの言葉をお借りするなら、『静かな雨』は、訳アリな大人のファンタジーなのです。

2004/6/24に掲載したものを2017年3月9日に再掲載。

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