B'zephyr 歌詞分析のコンセプト

音楽の楽しみ方は様々です。
たとえば、歌詞に自分の実体験や心境を重ね合わせて楽しむ。そして環境や心境によって、自分にとって歌詞の意味が様々に変化するのは、音楽の魅力の一つです。

そしてまた、歌詞について考察するという楽しみ方もあります。
稲葉さんの歌詞にはどんな特徴があるのか。どんな表現によって書かれているのか。
登場人物のどんな心が描かれているのか。どんな考え方が示されているのか。
そういったことを考察・研究・解釈していくのも、歌詞の楽しみ方の一つです。

私はこのサイトで稲葉浩志さんの歌詞についての考察、研究、解釈を紹介しています。
それらはあくまでも私独自の視点から考察したものです。
文章の性質上、断定的な表現をしていますが、私の解釈を唯一のものとして押し付ける気持ちはありません。

また、文中の「語り手」とは、作者稲葉浩志さんのことではありません。
「語り手」とは、ある物語(歌詞)を語る物語内(歌詞内)の存在であり、作者とは別の存在です。


さらに、歌詞は稲葉さんの日記ではありませんから、たとえ作者の実体験がなんらかの形で反映されていたとしても、歌詞はあくまでもフィクションとして捉えるべきものだと考えています



ファンサイトで歌詞をどう解釈するかをめぐるやりとりがされることがあります。
私が時折見かける意見として、次のようなものがあります。
「本当のことは作者にしか分からない」
そこには「作者の意図が全てであり、それこそが正しい解釈である」という考え方が根強くあるのだと思います。

作者が「これはこういう意味をこめた作品です」、と言ったら、確かに受け手はそれに影響されてしまいますよね。
特に自分の好きな作家とかアーティストの発言だったら、なおさら無視できないでしょう。
ファンの集まる場所などで、「私は作者とは別の見方をしてます」なんて仮に言ったところで、ただのひねくれた人としか思われないかもしれません。

しかし、本当に作者の意図は絶対なのでしょうか。
ここに子供が描いた猫の絵があります。
子供は「かわいい猫を描いたんだ」と言うけれども、私たちはその絵にそれ以上のものを読み取ることがあります。たとえば、その絵の天真爛漫さとか、のびのびした自由さとか。
でも、子供は「この絵に天真爛漫さを持たせよう」なんてことは全く意識しないで、ただ「かわいい猫」を描いたのではないでしょうか。

それは、夏目漱石の小説も、J-POPの歌詞も同じことなのです。
作品には、作った当人が意識していないことも、たくさん内包されています。
だから、ある作品を解釈していくうえで、その作者自身が解説したとしても、それはその作品についての唯一絶対の正しい解釈にはなりません
自分の作品であっても、それを解説するときには、たくさんいる批評家たちの中の一人にしか過ぎなくなります。
 
むしろ、読み手こそ、その作品をより客観的に捉えることができるとも言えます。
作者自身が気付いていない面白さや良さ、もしくは面白くない点に気付けることもあるでしょう

世の中には、研究職といって、ある作家のある作品を研究する仕事があるくらいです。

作品とは、作者の発言の中にしかとどまれないものではありません。作者もあずかり知らない、その作品の価値を見出そうとするのが研究の基本であり、それができるのは受け手です。


受け手がどのように作品を捉えようとも自由です。心のなかで作者の意図はこうに違いないと推測するのは楽しいことでもあります。
だけれども、私たちは神様ではないから、他人の心を覗くことなんてできません。
誰かが書いた文章から、完璧にその意図を読み取るなんてことは、不可能です。
それ以前に、作者自身だって、自分の意図や気持ちを完全に把握しているかどうか、あやしいものです。

昔、国語の問題で「この物語の作者、遠藤周作の気持ちを次から選べ」というものがありましたが、遠藤周作さんご自身は「そんなことは自分にだって分からない」と答えたそうです。
たとえ自分自身が書いた文章であっても、自分の意図や気持ちなんて、完全に把握していない場合だって、たくさんあるのです。
「作者の意図」なるものを答えてくれる存在がいるとしたら、それは作者自身でも読み手でもなく、ただ一人神様くらいのものです。

ですから、私は作者の意図を探ることを目的とはしていません。
私は歌詞に書かれていることを考察し、作品の読みを提示することを目的としています


では作品と作者をきっぱり分けて考えるのかというと、そうも思っていません。
作品がある以上、それを作った人間が存在して、その人間には感情も人格も備わっているわけですから、作者の言説や志向性や人間性を全く無視してしまうのはやりすぎだと思ってもいます。

アーティスト側の情報は、歌詞を解釈していくうえで必要な場合もあります。
B'zに「快楽の部屋」という曲があります。
理性も道徳もとりあえず忘れて、今夜は楽しもうという内容の歌詞なんですが、曲のなかほどに「This is THE LIVE-GYM」という歌詞があります。
このLIVE-GYMというのは、B'zのライブの独特の呼び名です。
頭を真っ白にして楽しむB'zのライブの情景が、男女の快楽の濡れ場風景に喩えられています。
でも、アーティスト側の情報を全く知らなければ、B'zのライブの風景なんて思いつかないし、「LIVE-GYM」という言葉を聞いても、どこかのスポーツジムかな?と思ってしまうことだってあるわけです(それでも解釈はできますけれど)。
このように、アーティスト側の意図と歌詞がリンクして、はじめて歌詞が意味を結んでいく場合もあります。

私は稲葉さんご自身の発言を尊重しています。
インタビューは読みますし、会報も確認しますし、ライブのMCにも耳を傾けます。
けれども、稲葉さんが語ることだけが、作品の全てを語っていることにはならないとも考えています。

自己紹介で「僕はこういう人間です」と話し手が限定的に語ったところで、聞き手にとってその人の価値がそれだけでは終わらないように、作品は作者が語ることを越えて、多くの価値や可能性をはらんでいます。

繰り返しになりますが、私はこのブログで、「作者の意図」を探るのではなく、あくまでも作品に「書かれていること」を考察し、作品の読みを提示することを目的にしています
それを踏まえた上で、時には一人のファンとして稲葉さんご自身について語ることもあります。

なお、作品世界の情緒や気分を決定していくのは楽曲であり、歌詞を伝える歌声だと思っています。私は必ず音源を聞いて考察しています。

ご理解いただければ幸いです。

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2004/10/24に掲載したものを2017/3/11に加筆修正して再掲載。

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