「志庵」-主体変容の意志 己から惑星へ

稲葉さんの歌詞はまず自分が変わろうとする姿勢主体変容の意志が示され続けてきました。
「自分のせいだと思えばいい そして自分を変えればいい」(「Time Flies」09年)はその最もわかりやすい一つの例です。

2017年現在もそれは変わりません。稲葉さんの歌詞では、何か困ったことがあったとしても、決して人を変えようとせず自分が変わるし人のせいではなく全部「自分のせい」、とされてきました。

「志庵」はメッセージ性の強いアルバムです。
いつものように稲葉さんは誰かに説教をするつもりは1ミリもないと思いますが、“こういうところに希望を見出しているこんな僕どうでしょう、もし良かったら一緒にどうですか?”と言われているようには感じます。

私はここで『O.NO.RE』ではじまり『とどきますように』に到達する『志庵』(02年)というアルバムに耳を傾け、自分が変わることがいかに外(世界)へと繋がっていくかを再確認してみたいと思います。

まずは『Seno de Revolution』をみていきます。

「信号ばっか見てないで自分の感覚 磨いてちょうだい 新聞はいつも絶対じゃないぜ やばい添加物有り」
「欲しくてたまらないソレは本当にマジで必要なの? 今更 疑うことが怖くなってしまったままの今日この頃」

情報を鵜呑みにするのではなく、自分の頭と体を使って真実を確かめることの必要性が示されています。
情報や周囲の流れに身を任せていると、何が本当に必要なのか、何が大切なのかを考えることもしなくなってしまいます。
自分のありようを問い直すことをしないまま日々を過ごしてしまうことに慣れ、いつしか自分ひとりで考えたり行動することが「怖くなってしま」う。
そうなると物事の本質を見極める「自分の感覚」は鈍る一方です。

ところが、自分を疑うことはできないのに、いつも他者を疑ってしまう「キミとボク」がいます。

「キミとボクの胸の中でいつも渦巻いてるJealousy なんとかしたいね 」

「恋におちてゆけば疑心暗鬼 被害妄想」(『その手で触れてごらん』)という歌詞が思い出される一節です。互いの気持ちを疑うことが原因となって不毛な「言い争い」が起きてしまいます。
こうした日常的な争いは、「惑星」にまで波及していきます。

「何でなのひとつになれない フシギな惑星 この星こそワレラそのもの」

ここに提示されているのは、 他者を疑ったままでどうして人と人が「ひとつ」になることができるだろうかという疑問です。
「この星こそワレラそのもの」とは、「惑星」のありようが「キミとボク」のありようをそのまま反映しているということです。「惑星」という大きな規模での変化も、個人の身近な人間関係から出来ていくということでしょう。
「惑星」という規模で人々が「ひとつ」になることも、それぞれの身近な人間関係がスタートとなっていることが示されています。

この惑星が「ひとつになれない」のは、人のせいではなく、身近な「キミ」とさえ通じ合うことのできない、己を少しも知ろうとしない自分のせいであるという自覚が、『とどきますように』では、さらにはっきりと示されています。

「誰のせいじゃない それは僕のせいだろ 知らない国であなたが泣いているのは
はるか遠くの惑星の話じゃないんだよ すべては同時に起こってるこの足元で」

TVで餓えや戦争で苦しむ遠い国の人々の姿を目にしますが、それを自分とは関係ないこととして受け止めてしまいがちです。
しかし、『とどきますように』では、この惑星の悲しい現状は、隣人と絶えず争ってしまう自分のせいなんだという自覚の必要性が提示されています。
「わかるもんじゃない そうは簡単に人の気持ちなんて」とあるように、分かり合うことが難しいからこそ、私たちは他者の気持ちを疑っては「争い」を起こしてしまいます。
けれども、大切なのは他者を疑うのではなく、己自身を疑うことなのではないかということを『志庵』は語っています。

他者と通じ合うためには、まずは己のありようを問い直す必要があるということです。

「ずっと僕たちが 注意深くいられるように」

自分もまた、戦争を繰り返してきた「懲りないDNA」を持った人類のひとりであるという自覚を持ったうえで、まず 己に対して「注意深く」なり、常に己を問い直す気持ちを忘れないようにする姿勢がここには示されています。


再び『Seno de Revolution』をみてみましょう。

「革命はジワジワとじゃなくてパッと一瞬に 革命は外側からじゃなくて 内からえぐるように」
「せーのでRevolution! A strong Imagination!」

「外側」から起こす行動は、単なる見せかけのポーズに終わってしまう危険性もありますが、「内から」起こす個人(己)の内面改革こそは、この世界が「ひとつ」になるための「革命」に繋がるという思考が示されています。
そして、世界中の人々がいっせいに「せーので」己を見つめ直し、気持ちを切り替えたのなら、「パっと一瞬に」世界が「ひとつ」になれるのではないかという希望が示されています。

「自分の感覚」を磨くこと。それは、世界が「ひとつ」になるための出発点とされていると言えるでしょう。
自分自身さえ知らないのに、どうして他者の気持ちを知ることができるでしょうか。

語り手は、「惑星」が「ひとつ」になれますようにという願いを胸に抱きながら、身近な「キミ」との人間関係から第一歩を始めます



己を問い直し、己を知ろうとすることについて、もう少し考えてみたいと思います。

「オノレを知れ そんで強くなれ」
「身のほどを知れ 力を抜け」 (『O,NO.RE』)

 「身のほどを知れ」、といっても、それは自信を持つなということではなく、自分を過大評価も過小評価もすることなく、あるがままの己を知れということを言っているのでしょう。

己にとって何が必要なのか。何が大切なのか。自分はどうするべきなのかを問い直していく必要性があるということではないでしょうか。

そして、真剣に自分を問い直したうえで、本当に自分がこうしたい、こうするべきだと思ったのなら、「やりたきゃやりゃええんじゃ」ということなのでしょう。
「自分の感覚」を働かせて導き出された決意が大切だということです。


このことは、『とどきますように』の次の一節とも、密接に関わってきます。

「熱に浮かれたように 荒れ狂う波が引いても ただしっかり立っていられるかい?」

テロや戦争や何かの「荒れ狂う波」の渦中にある時には、波にさらわれまいと踏ん張って、たとえば平和の尊重を声高に訴えたりしますが、はたして「荒れ狂う波が引いて」平和が訪れた時にも問題意識を忘れずに持っていられるでしょうか。
かつて『HOT FASHION』には「どこかの虐殺への痛みさえ置いてきぼりだよ」とありましたが、「波が引いて」しまうと、人は過去の教訓を忘れて同じことを繰り返してしまいます。

「いつまでも僕たちが笑っていられますように」という願いが叶うためには、たとえ「荒れ狂う波が引いても」平和的なムードに流されることなく、「自分の感覚」や「A strong Imagination」をとぎすまし、一人一人が問題意識をしっかり持ち続け、常に「注意深く」生きていく必要があるのではないか
そんなことが読み取れるように思います。

稲葉さんの歌詞の語り手は、いつも自己と自己の身近な人間関係を見つめています。それゆえに、内向的だと言われることもあります。
しかし、“己が世界の変化の出発となるならば、その出発点をよくよく確かめなければならない”そうした自覚のもとにとられているこの姿勢を、単純に内向的だと言えるでしょうか。
私はそこに誠実さを感じます。
稲葉さんがこれまで繰り返しB'zやソロで歌ってきたのは、自分をとりまく現状をどうにかしたかったらまず自分が変わる、という主体変容の意志でした。
自己の内に向かうことが、最終的には自己の外(世界)に通じていくということを稲葉さんの歌詞はずっと伝え続けてきたように思います。

これまでの作品では、人類とか「惑星」といった規模に直接的には言及されてこなかったので『志庵』を初めて聞いた時、私は少し戸惑いました。
でも稲葉さんのこれまでの歌詞をよくよく思い返してみれば、そこに意外なことなど何もなかったのかもしれません。
己と世界との繋がりは、稲葉さんの歌詞において常に意識されてきたのであり、これまでの歌詞に人類とか「惑星」といった言葉が直接的には書かれてこなかったことと、『志庵』でそれらが書かれていることとの間に本質的な違いはないのでしょう

己を問い直し、己を知ることによって磨かれていく「自分の感覚」、そして「A strong Imagination」。それは世界という規模での変化にも繋がっていくということを『志庵』は物語っています。

己を知ることの必要性を歌う『O.NO.RE』を出発点とし、惑星(世界)という規模におよぶ『とどきますように』に到達する『志庵』は、アルバムそのもによって “まず己から”という主体変容の意志を示しています

2002年11月16日に掲載したものを2017年3月13日に加筆修正して再掲載した。

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