「哀しきdreamer」二項対立の価値判断を越えて

稲葉さんの歌詞の内容的な特徴を挙げよ、と言われたら、“あるがまま志向”と、“ぬくもりの完全性”と、“主体変容の意志”、そして“赤い大地への憧れ”と私なら答えます
これらが稲葉さんの歌詞の核となる感覚だと考えています。

『哀しきdreamer』には、ものごとを価値判断することを否定し、ありのままに受け止める姿勢(あるがまま志向)が提示されています。

稲葉さんの歌詞のなかでも、かなり哲学的な作品です。
B’zのシングル『FIRE BALL』(97年)の2nd Beatに収録されています。

「吹きつづける風 葉っぱをちぎって 街を走って 心は揺れて 古いページを めくりかえして ため息ばかり でてくるなら
道徳不道徳 常識非常識 どっちつかずの 生活に気づいて めんどくさいこと もうやめたいこと 山のようなうそ 全部わすれてみよう」

「街」で社会生活を送っている以上、私たちは社会的常識や道徳に沿って生きていかなければ、白い目で見られるかシカトされてしまいます。
だから、本当は「めんどくさいこと」なんだけど、やらないと「非常識」だと言われるから、やる。本当は「もうやめたいこと」なんだけど、やらないと「不道徳」だと言われるから、続ける。
これは、自分自身に「山のようなうそ」をつきながら生きている状態ですよね。

子供のころは、人の目など気にせずに、気持ちのおもむくまま、なんでも好きなことができました。だから、若い頃はなんでも好きなことができて良かったなあなんて言いながら、こっそり古いアルバムの「ページをめくりかえして」、「ため息ばかりでて」しまうのですよね。

社会的に「非常識」と言われてしまうものを自分の心に抱えていても、非難されることが怖くて、実際におこす行動は「常識」的になってしまう。
そんな嘘だらけの「どっちつかずの生活」にうんざりしても、その「生活」から抜け出すのはとても難しいことです。だけどもういい加減に「山のようなうそ」を「全部わすれて」自分に素直になってみれば?とこの作品はうったえかけてきます。

けれども、素直になるというのは、単純なようでいてとても難しいことですよね。

「なにで君の価値は 決まるのだろう 見えないものか 姿形か
どっちでもいい どっちもいっしょだ 真空地帯に どんなジャンルもないない」
「よけいなものを 捨ててごらんよ 値札はいらない」

 ものごとに「値札」をつけること。すなわち、「価値」を決めるということ。
 「常識」か「非常識」か。「道徳」か「不道徳」か。「見えないもの」か「姿形」か。善か悪か。得か損か。これか、あれか。
世の中は、こうした二項対立的概念でものごとを「ジャンル」分けし、「価値」を決めるクセがついています。

ものごとを、「常識」か「非常識」かに分けて価値判断しようとすると、「非常識」なものを抱えている自分に引け目や息苦しさを感じることがあります。
生まれたばかりの子供が、本能のおもむくままに自由に行動していけるのは、「常識非常識」なんてことは全く考えないからです。子供にはそんな概念自体がありません。
自分がしていることが「非常識」かどうかなんて考えないから、引け目も息苦しさも感じない。何にもとらわれていないから、自由な存在でいられるのです。

稲葉さんは『TOKYO DEVIL』でも歌っていました。「善も悪も飛び越してゆけ」、そして「イタイケ」な「ガキのようにすっと手をのばす」のだ、と。


「信じなくても おがまなくてもいい 体はムズムズしてくる we're gonna feel」

 「体はムズムズしてくる」ということと、「ガキのようにすっと手をのばす」というのは同じこと。思うよりも前に、体が動くということです。
既成概念にとらわれずに自由になれたならば、自分が本当にしたいことにひたすら向かっていくことができる。自分の「夢」が叶うかどうかなんて、結果を「信じ」ている暇も、「おが」む暇もないほどに。

「どっちつかずの生活」は良くないから常識から抜け出して非常識になれだとか、不道徳になれということではありません。
「ジャンル」分けされたもののどちらか一方を選ぶ「生活」であれ、「どっちつかずの生活」であれ、“ものごとをジャンル分けして価値を決める概念”に縛られているという意味ではどちらも同じ不自由な状態です。

「ジャンル」分けしようとするから、「どっちつかず」な自分に息苦しさを感じてしまう。ものごとをジャンル分けする概念そのものを捨て去らなければ、自由にはなれません。
既成概念を捨てて、自分自身の目と心で、ものごとをあるがままに感じてみようということです。

「正しいとか間違いとかじゃなくて 動かしがたい場面があって
「自分がいて何かを感じてる そう自由に感じてみればいい」( 『そのswitchを押せ』)

 物事や人に対して、「正しい」とか「間違い」というレッテルを貼るのではなくて、物事をありのままに「自由に感じ」る姿勢が稲葉さんの歌詞では提示されています。

A:「Cさんは悪い人です。」
B:「でも、Cさんは優しいところもあるじゃないですか」
A:「いいえ。Cさんは、良い人ではありません。絶対に悪い人です。」

善か悪か、正しいか間違っているかという価値判断をしてしまうことで、Bさんには見えている「Cさんの優しさ」を、Aさんはごっそり見失ってしまっています。ものごとに「値札」をつけて、盲目になってしまっているのです。


ものごとに値札・価値をつけるということに潜んでいる落とし穴。それは、自分が本来感じられるはずの他の多くのことを無視し、単純化して、つまらないものにしてしまうということです。
そしてついには、自分自身を「ジャンル」分けして、自らを窮屈な枠の中に閉じ込めてしまうのです。
ものごとを、ジャンルわけし、価値判断するということの無意味さ。自分が感じたことを、小さな枠に入れることの愚かさ。
だから語り手は、ジャンル分けで価値を判断するのではなく、自由に、あるがままに感じてみよう、あるがままの気持ちに素直に生きてみようと言っているのです。
「何もかも捨てて生まれ変わる」とは、あるがままにものごとを見ることのできる生まれたままの子どものようになるということでしょう。


「夢見てもいいだろう ちょっとくらい 逃げてるだけだと せいぜい笑うがいい」
「僕が変わってゆくところ ぜひとも 君には見てほしい then you're gonna see」

 夢見るということ。つまり、既成概念にとらわれずに自分が本当にしたいことに向かって生きていくということは、この社会にあってはそうとう勇気がいることです。

「街」の価値観のなかで生きる人の視点から「dreamer」を見たら、まるで現実から「逃げてるだけ」のようにしかみえないでしょう。「役にも立たない夢を追いかけて、あいつはバカだ」とか、「そんなことがしたいなんて、あいつは非常識だ」とか、すぐさま価値判断され、笑われてしまう。ヤジを飛ばされ、誰からも理解されない。

本気で夢を見るには、自分を笑いものにする人々に対して、“指をくわえて僕の自由を「せいぜい笑うがいい」”と言ってしまえるだけの覚悟が必要です。「街」から抜け出し、「真空地帯」に生きることは自由であると同時に、孤独なことなのです。
手にするものは、自由と孤独。だから、彼は『哀しきdreamer』なのです。

2004年1月6日に掲載したものを2017年3月13日に再掲載。

→目次へ戻る

この記事へのコメント


この記事へのトラックバック