赤い大地への憧れ 第三章 荒野を走り続けた先に

第二章では、『MR.ROLLING THUNDER』、『赤い河』、『WILD ROAD』の歌詞について考察しました。

第三章では、『RUN』、『愛なき道』、『arizona』を見ていきます。

『RUN』と『愛なき道』は、主人公が一人で大地を駆けるのではなく、身近な他者と共に駆けています。
荒野を走り続けた先に、主人公にとって大切な何かが見えてくるという構造は、第二章で見てきた曲と共通しています。
『RUN』、『愛なき道』、『arizona』において、広大な大地が主人公に教えてくれる大切なもの。
それは嘘いつわりのない“信頼関係”です。


1、『RUN』

「荒野を走れ 傷ついても 心臓破りの丘を越えよう
飛べるだけ飛ぼう 地面蹴りつけて 心開ける人よ行こう」

 「荒野」とは厳しい人生の比喩なので、この曲では実際に大地を駆けているわけではありませんが、「荒野」という言葉からは赤い大地の荒れた道が想起されます。

「何もないところからたよりなく始まって 数え切れない喜怒哀楽をともにすれば
時の流れは妙におかしなもので 血よりも濃いものを作ることがあるね」

「おまえ」と様々な思いを共有しながら生きることによって、主人公は「おまえ」との間に「血よりも濃いもの」つまり絆を結ぶことができたのだと言います。
主人公と「おまえ」は「何もないところから」始めて、荒野を共に駆け続けた先で確かな信頼関係を築くことができたのです。

「約束なんかはしちゃいないよ 希望だけ立ち上る だからそれに向かって」

 「約束」をしないということ。それは、言葉でお互いの気持ちを確認する必要もないほど、互いの心が通じあっているということです。
 「死ぬならひとりだ生きるならひとりじゃない」という言葉を断定的メッセージとして発信できるのも、「おまえ」と信頼関係を築いてきた主人公が、経験によってそれを確信しているからなのでしょう。
 「希望だけが立ち上る」。こんなにも確信に満ちた力強い言葉が、主人公の口から出てくるのです。
 主人公が「荒野」を走った先に辿り着いた「おまえ」との揺るがぬ信頼関係は主人公に生きることへの「希望」を与えています。


2、『愛なき道』
 この曲もまた、「道」という言葉が人生に喩えられています。
 しかし、「愛なき道」とは、愛情のない人生という意味ではありません。

「十分だろう僕らは十分すぎるほど 愛という名のルールに懸命につくしてきた
うしろ指などさされることもないままに ある種の理想に限りなく近づいていたみたい」

「愛という名のルール」とは、“世間的に正しいとされる愛し方”のことであり、言い換えれば“マニュアル化された愛”のことです
主人公と「おまえ」は、愛の「理想」に近づくために、自分自身の素直な気持ちを抑えて、マニュアル化された愛し方をすることにやっきになっていました。

たとえば、ほんとは相手が全部欲しいけれど、そう思うことは身勝手かもしれないとか、相手のためには自分の気持ちを犠牲にすべきなのかもしれないと考えてしまうことは、きっと誰にでもあることでしょう。
ところが、自分の本心を抑え続けて愛の理想形に近づくことが、2人にとっていつしか苦痛になっていきます。

「けっこう疲れたってことは休めってことだろう ありがちな症状だ いつのまにかこうなってる 
ああ あるがままの相手じゃない互いに見ていたのは」

 「あるがままの相手」を見つめあって、自然な気持ちを交流させることが「いつのまにか」置き去りにされ、「愛という名のルール」(マニュアル化された愛し方)に「懸命につく」すことそれ自体が、2人の目的になってしまっていたのです。

ふたりの愛は、いつのまにかわざとらしく作り上げた技巧的なものになってしまっていたのです。
愛の理想に近づくために技巧的になり、あるがままの自分を抑え付けていたら、「いつのまにか」互いに精神をすりへらし、疲れきってしまっていたのです。
 
「愛のない長い長い道をぶっとばしてゆこう 幻を次から次へと追いやって」

「愛のない長い長い道」とは、本当の意味で愛のない生き方のことではありません。
この作品における「愛」という言葉は、“マニュアル化された愛”と同義です。
ですから、「愛なき道」とは、“マニュアル化された愛”のない道のこと、つまり、あるがままに生きる道のことです


「おまえのエンジンもっとうならせろ こわれたように叫んでみれば 地平線の果てに見える 信じられるものが見える」

「地平線」という言葉から、広大な大地を想起した人も多いのではないでしょうか。
私はすぐさまアリゾナの赤い大地をイメージしました。
都会では、「地平線」なんてなかなか見られないですものね。
ということで『愛なき道』も赤い大地を舞台にした作品として私が勝手に認定させていただきます。

「エンジン」をうならせて「こわれたように叫」ぶとは、どこまでも自分自身の気持ちに素直になるということ。互いの素直な気持ちをさらけだすということではないでしょうか。
 「地平線の果て」とは、「愛のない長い長い道」をぶっとばしていった先にある到達点です。互いが嘘偽りのない素直な気持ちで生きていくのならば、いつかその「果て」に本当に「信じられるものが見える」。
本当の信頼関係を築くことができるのだと主人公は言います。
大地を駆け続けた「地平線の果て」に、信頼関係という大切なものが見えてくるということです。

3、『arizona』
 『arizona』は、「あなた」と離れて傷心の主人公が、アリゾナに一人旅立ち、赤い大地を延々と走り続けることで、カタルシスを期待します。

「ヘッドライトを消して走ろう 冷えた地面にねころがろう 何かが遠くで吠えている それでも僕は怖くない
耳にうるさいほどの静けさ ふるさとを離れたリアルさ」

アリゾナの荒野の夜は、闇です。
ヘッドライトを消して走ったり、コヨーテか何かが遠くで吠えている地面に寝転がることは大変な危険を伴います。
私自身、稲葉さんへの憧れるからアリゾナに行って同じことをしようとしたことがありますが、命に関わるような怖さを感じて、とても同じことはできませんでした。
ここは「ふるさと」という安心できる日常世界ではありません。
「それでも僕は怖くない」という時、語り手には死への覚悟か諦観のようなものがあるのだと思いました。


「大地を踏むしめ暮らす者の 叫びを小さな背中に聞けば 痛いよ 痛いよ だれかそこをなでておくれ
ともに過ごしたあなたとの歓びだけがよみがえり痛いよ」

 主人公にとってアリゾナが非日常的世界であっても、ネイティブにとってはそここそが日常です。
主人公が日常世界で悩み痛みを抱えたように、ネイティブはこの赤い大地で、「叫び」をあげ、痛みを抱えながら生きています。
そして、主人公はネイティブの痛みを敏感に感じ取ることによって、自分自身の痛みと重ねていきます
そして、幸福だった時の「あなたとの歓び」を思い出してしまうことで、今の自分の孤独と喪失感をより強く意識していきます。

「夢だろうすべては 生まれてくること死ぬこと
このまま埋もれて 素敵な生まれかわりなど信じてみようか」

“全てが夢・幻なのだから、人間が生きることや死ぬことを怖れたり、人生に四苦八苦しても意味がない”という考え方をすることによって、この世の全ての苦しみから解放されたいと思っているのです。
そして、来世の「生まれ変わり」を信じて、このまま死んでしまおうかということまで考えます。
彼は、生きるか死ぬかの瀬戸際まで追い詰められていました。

「岩影はただ高くそびえ 風がしげみを躍らせてる 
時の単位は大きく変わり 悩める旅人たちを癒す」

 赤い大地がどこまでも広がり、「ただ」岩がそびえ、「風」が吹いているだけの世界。
他者との関わりも何もなく、自分の名前を呼ばれることも、誰からも何からも追われることのない非日常的な世界が、日常世界で傷つき疲れた彼の心を癒します。
 高いビル、混みあう道、その間をうごめく人の群れを見れば、何かしら私たちは意味を考えてしまいます。『ZERO』のように、工事渋滞の赤いランプを眺めてるうちに、ついつい何かを考えすぎてしまって、眠れない日を過ごさなければならないこともあります。


しかし、このアリゾナの赤い大地において、全てはそこに“在る”だけです。
「岩影はただ高くそびえ」という言葉が示すように、「ただ」そこに存在している自然の姿は、意味の氾濫する日常世界とは違い、全く意味を付与されていません。
意味がないということが、主人公にとって癒しとなっているのです


 『MR.ROLLING THUNDER』の主人公が、余計なものがそぎ落とされた世界で、自分の中に残った最も大切な人の名前に気付いていったのと同じように、『arizona』の主人公は、この非日常的な世界で、ある大切なことに気付いていきます。



「水のない河を泳ぐように 僕らは必死にもがいてた 結ばれること離れることで 人の絆は強くなってゆく」

恋し合って結ばれ、傷つきながら別れ、互いに「水のない河を泳ぐような」苦しい思いをしたことは、二人にとって決してマイナスにはならない。むしろ、別れたことによって、結ばれていただけの時には知ることのなかった苦しみを共有し、互いの苦しみを分かち合ってきたからこそ、喜びだけではなく痛みをも分かち合うことができる関係が築かれ、「絆」がより強くなっていったことに気付いたのです。

「結ばれること離れることで人の絆は強くなってゆく」ことに気付くことができても、「あなた」と離れて感じてしまう孤独と痛みがなくなるわけではありません。
しかし、離れることが終わることではないということを知っている彼は、たやすく絶望できないのです。
絶望できないからこそ、「もはやひとりでは生きられぬひ弱な心」を抱えながら、彼は生き続けなければなりません。

今、彼の心を占めているものは、離れることで強くなった「あなた」との「絆」の再発見であり、また、「あなたがただで僕にくれたくちづけ」(「あなた」が無条件にくれた愛情)です。
これは彼にとって、完璧さの記憶に他なりません。

この完璧さの記憶である「あなたとの歓び」は、彼に絶え間ない「痛み」をもたらします。しかし、同時にそれは、彼にとって唯一「星のように輝きつづける」もの、希望ともなっています。
主人公は「あなた」との「絆」を支えに、これからを生きていくことでしょう。彼はこの先も生き続けることを選びました。


4、痛みと隣り合わせの希望
 赤い大地は主人公を癒し、彼の中の最も大切なことに気付かせてくれました。
しかし、赤い大地は、全ての苦しみを消し去るわけではありません。
 『arizona』の場合、主人公は「あなた」との「絆」に気付くことによって、自分にとっていかに「あなた」の存在が大きいかを再確認することで、旅に出る前よりも痛みを増しているような気がしますし、『MR.ROLLING THUNDER』の主人公にも同じことが言えます。また、『赤い河』の主人公も、自分の「自由」が「限られた」ものであることを再確認しています。

 主人公たちは、過剰な行為を繰り返すことで“何もかも忘れてしまいたい”と思って旅に出ますが、結局のところ、完全なカタルシス(苦しみの浄化)は得られません。痛みも苦しみも、生きている限り決して消え去ることはないのです。

主人公たちが赤い大地を駆け続けた先に獲得するものは、涅槃のような完全な救いではありません。
彼らが得るのは、いつでも痛みをともなった希望です。痛み・苦しみを内包した希望なのです



5、母なる赤い大地
 日常生活のしがらみや人間関係における辛さや悲しみに埋もれ、いったい自分にとって何が大切であるかを見失いやすい世界に生きる稲葉歌詞の主人公にとって、大切なことに気付かせてくれる赤い大地は、とても重要な場所として認識されています。

 
包容力のある女性に答えを求めるように、彼は赤い大地に答えを求めているのかもしれません。
歌詞の主人公と、稲葉さん本人は必ずしも一致するものではありません。
しかし私は、あえて批判を恐れずに述べます。主人公の赤い大地への憧れは、きっと、稲葉さん自身の赤い大地への憧れなのだと。

「何も手にいれないままで大地に溶けてゆこう」(『WILD ROAD』)というフレーズがありますが、きっとそこには、赤い大地と同化したいという思いがあるのでしょう。
意味の氾濫する日常世界からかけはなれた、だたそこに“在る”だけの大地への憧れが。

再び、『まだ見ぬホテルへ』解説(稲葉なおと著 新潮社 2003.5)から引用します。

「朝出発して、砂漠の真ん中の道を走り抜け、日が暮れたらホテルを探し、砂塵にまみれた身体をシャワーで洗い流してベッドに倒れ込み、寝てしまう。観光地なんかには見向きもせずに、ただ、それを繰り返す」

大地を駆け、赤い砂塵にまみれた主人公は、大地と一つに溶け合うことでしょう。
主人公も稲葉さんのように、砂塵にまみれては、それをシャワーで洗い流し、また砂塵に染まっては洗い流したのかもしれません。
それを繰り返していくうちに、余計なものは全て彼の心の中から洗い流されていき、次第に自分の心の奥底にある輝きを放つものに気付いていきます。

それが『MR.ROLLING THUNDER』では「君の名」であり、『赤い河』では「限られた自由」であり、『WILD ROAD』ではGREENな気持ちであり、『RUN』、『愛なき道』、そして『arizona』では、他者との「絆」だったのです。


稲葉さんは以前、90年代に初めてモニュメントバレーを見たとき、懐かしいなって思ったよ、と会報で語っていました。
当時のそうした体験が、『MR.ROLLING THUNDER』(92年)以降の作品に結実していったのでしょう。

「僕は真っ赤な大地の聖なるワレメの中から 生まれた きっと」(『MR.ROLLING THUNDER』)

主人公をそっくりそのまま懐に受け入れて、大切なことを気付かせてくれる赤い大地。そして、人生の再出発へと導いてくれる赤い大地。
稲葉さんが何度も訪れるという赤い大地とは、稲葉さんにとって回帰すべき場所であり、己を生まれ変わらせてくれる母なる場所なのかもしれません。

※私がこの文章を書いたのは2003年、今(2017年)から14年前になります。
あれから時が経過し、多くの作品がリリースされてきました。
赤い大地への憧れというテーマで、今後も作品をとりあげ、考察を続けていく予定です。

参考文献
『まだ見ぬホテルへ』(稲葉なおと著 新潮社 2003.5)

2003年7月14日に掲載したものを、2017年3月15日に再掲載した。

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