ぬくもり至上主義

稲葉さんの歌詞においては、言葉も約束も不完全なものであり、何よりも手触りやぬくもりが信じられてきた
稲葉歌詞は、ほとんどぬくもり至上主義と言ってもいいほど、ぬくもりは最上級のものとして示されている
「CHUBBY GROOVE」(2017年)収録の「AISHI-AISARE」で、語り手は「君」の「ゆずれない感触」を取り戻そうとしている。
感触とは、手触りであり、ぬくもりを感じることだ。
語り手にとって、「君」の「感触」は完璧なものだった。
(「AISHI-AISARE」の詳しい考察は「CHUBBY GROOVE」考察後編を参照)

さかのぼって稲葉歌詞におけるぬくもりについて確認していきたいと思う。
………

『Touch』(ソロアルバム『志庵』収録VERMILLON RECORDS 02年)の語り手は、「この気持ちは何なんだろう」「こんな気持ちはどうなんだろう」と、言葉にし尽くせないような気持ちを抱いていた。

「明け方日夢の中だけじゃなくて 文字だらけの画面の中でもなくて
何気にハミングする声でもいい できればその手をとって伝えたい」

稲葉さんの歌詞では、言葉は時に無力で不完全なものとして描かれてきた。言葉で交わされる約束も絆を確かめるものにはならない
「言葉はいつも役に立たない」(「TIME」)、「約束なんかはしちゃいないよ」(「RUN」)が最も分かりやすい例の一つだ。
「無言のpromise」(06年)においても、それが「無言」で交わされる約束であることに注目したい。

「RED」(2015年)では「沈黙を破るのは言葉じゃない」とされ、やはり言葉に重きは置かれていない。
「絆の色」は「血の色」とされている。血とは体温そのものである
その赤さは「どんな闇にも差すlight」であると語り手は信じている。やはり身体のリアルな温度、生々しい熱さが、稲葉歌詞の語り手には信じられているのだ

『Touch』における言葉もまた、コミュニケーションの手段としては万能ではないものとして示されている。

語り手は、自分の気持ちは「夢の中」だけでは伝えられないのはもちろん、「文字」(言葉)でも完全には伝えきれないと言う。
そして、「できれば手をとって伝えたい」。すなわち、「Touch」して「伝えたい」と言う。
嘘偽りないあるがままの「気持ち」を伝えるためには、「あなた」に「Touch」する必要があるというわけだ。

「Touch」するということは、相手に触れるということだ。
触れるという行為は、自分のぬくもりを相手に感じさせると同時に、相手のぬくもりを感じる行為である。
人のぬくもりを感じるとほっとした気持ちになるのは、ぬくもりを通して相手のあたたかな心を感じるからだろう。

『夢のような日々』には次のようにある。

「あんなこともこんなことも夢じゃないぜ しっかり手をにぎって欲しいよ 
温もりはどんな言葉よりリアルになるよ」

語り手は仲間の「温もり」から、相手の気持ちを「リアル」に感じ取っている。
ここには、「どんな言葉」も「温もり」ほど人の気持ちをリアルに語ることはできないということが示されている
仲間の友情に支えられて生きる日々が、まるで「夢のような日々」に思えたとしても、それは決して「夢じゃない」。
語り手がそう確信できるのは、今、ぬくもりを通して友情を「リアル」に感じているからだ。

『愛なき道』においても、「どんな言葉も表せない 愛の言葉はがらくたになる」とあるように、言葉は気持ちを伝えるための手段としては不完全なものだった。
「ういういしいぬくもりがもっと鮮やかに見えるよ」と示されるように、言葉を越えたものとして「ぬくもり」が描かれる

『May』には、「いつまでぬくもり求めてさまようのだろう」とあり、語り手は「夢」に出てきた幻の「君」ではなく、現実におけるリアルな「君」の「ぬくもり」を求めていた。
「言葉になりきれない」気持ちを抱えていた彼は、言葉を越えた「ぬくもり」を通じて、「君」と確かに気持ちを伝え合いたかったのだろう。

『The Wild Wind』には「交わしたぬくもりだけが 僕を包む」とあった。
「季節」が過ぎていき、「君」が主人公の前から消えていっても、「ぬくもり」だけは消えることなく、確かなものとして心に残ったのだ。


『THE BORDER』 でも稲葉さんは言葉を「冷えた言葉」と形容することで、 「言葉」の不完全性を示唆していた。

「また新しい涙を見せて時間を返せと君が言う ビールでちょっと麻痺した神経で 冷えた言葉を眺めてる」

恋人が涙を流して自分を責めているのに、二人の関係が「そう簡単に」「だめにはならない」と断言できるのは、語り手が「言葉」を超越したところで二人の間に結ばれている絆を信じているからだ。
彼は「おいでよ いっしょにいよう もうひとつ 夜を越えれば強くなれるから」と言う。
夜を越えること―そこには、肌と肌の触れあいが暗示されている。
「君」が投げかけるどんな悲しい言葉も、怒りの言葉も、語り手にとってはたいした意味を持たない。
なぜなら、語り手は、「夜を越え」ぬくもりを感じあい、互いの気持ちを再確認すれば、決して二人の関係は「だめにはならない」と信じているからだ。
ここでは言葉は「冷え」て意味を失い、ぬくもりが二人を「強く」繋げていく。 

『GO』に登場する「君」は、愛する人と一緒にいるにも関わらず、その幸せを味わう余裕もないほど「不安」に「押しつぶされ」ていた。

「明日という日がどうなろうと かまわないほどに 
強く確かに抱いて抱いて
かすかなぬくもりひとつ残さず
その胸の奥にそっとしまいこんでゆけ」

「君」は、「自分で作る幻」にとらわれるあまり、今確かに愛し合っているという真実を忘れていた。
「ぬくもり」が伝える相手の真実の気持ちを感じとり、それを信じることによって「ゆけ」ということが示されている。

……追記(2005/1/27)……
2004年『Peace Of Mind』リリース当時、稲葉さんは雑誌『anan』(株式会社マガジンハウス 2004年9月15日発行 第35巻第35号)のインタビューなかで、幸せとぬくもりについて次のように答えていた。

「そう、幸せって追い求めるものではなく、思い出してかみしめるものじゃないかと。例えば、ちっちゃい猫や犬を抱いた時のぬくもり。その感覚を大切にしまっておいて、落ち込んだ時に思い返す。すると、また幸せな気持ちが湧いてくる。」

稲葉さんのこうした幸福の感覚が、様々な作品に結実されていったのだろう。
稲葉さんの歌詞において、手触りやぬくもりは完璧さそのもの、あるいは完璧さの記憶なのである。
………

ここで扱ってない作品についても、ぬくもりの幸福感という観点から考察をしていく予定である。

2002/11/6に掲載したものを加筆修正し、2017年3月17日に再掲載した。

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